今月のインタビュー

医療・福祉のあらゆる分野の第一人者の方々に、ご専門分野に関する現状・課題・今後の展望などをおうかがいする「今月のインタビュー」。
多くの看護師、医療従事者の方々にとって"目指すべき医療とはなんなのか"を考えるきっかけにしていただけるよう、毎月テーマを厳選してお届けします。

第67回 2008/11

災害看護の経験と知を、日本から世界へ発信

今、世界のあちこちで自然災害や紛争が多発しています。たくさんの被災者が医療や看護の手を必要としています。今回はご自身の阪神淡路大震災での経験をもとに、日本災害看護学会の創設に携わるとともに、日本の経験や知を世界に発信して活躍する南さんにうかがいました。

国際看護師協会 会長
日本災害看護学会前理事長
近大姫路大学 学長・教授
南 裕子 氏

国際看護師協会 (ICN)
日本看護協会
日本災害看護学会
近大姫路大学

看護の原点は災害看護にある

人が生まれてから死ぬまでの間には、病気になったり、自分で自分の面倒が見られなくなったり、家族の面倒が見られなくなったりすることがつきものです。したがって、看護の歴史は人類始まって以来の歴史があると言ってもいいと思います。

近代看護を起こした方は、皆さんよくご存じのようにフローレンス・ナイチンゲールですね。ナイチンゲールの業績はたくさんありますが、一番有名なのは、クリミア戦争でのスクタリの傷病兵収容所のものだと思います。
そこでナイチンゲールが示したことは、戦争という人的災害で傷ついた傷病兵=被災者たちを収容していた環境が、あまりにも劣悪であると本国に訴え、その環境を改善していった結果、傷病兵の死亡率を20分の1にまで減らすことができたということでした。つまり、看護の原点は災害看護から始まったといってもおかしくないのです。

しかし、この時のそういう発想から"看護"として残ったのは、赤十字の仕組みと自衛隊のような軍隊での仕組みだと思います。1990年代前半までは、戦争に行って傷病兵やその土地の人々のケアをし、自然災害が起こった場合も赤十字がまず動く、日本なら赤十字と自衛隊がまず動くというのがほとんどだったわけです。

阪神淡路大震災の経験から災害看護の取り組みへ

1995年1月17日に阪神淡路大震災が起こり、3月には地下鉄サリン事件が起こりました。阪神淡路大震災は未曾有の都市型震災で、犠牲者が6400人を超え、サリン事件はテロという日本で初めての経験でした。95年は、災害ということに関していろいろな意味で象徴的な年で、ボランティア元年とも言われる年になりました。

私はこの地震が起こった時、兵庫県立看護大学の学長をしており、震源地に近い明石に住んでいました。私のところはマンションだったのですが、もちろん建物の一部損傷もあり、周辺は大きなダメージを受けましたし、学生たちもたいへんなダメージを受けました。

その衝撃は非常に大きかったのですが、それ以上に、6400人を超える方々が亡くなり、4万3千人の方々が負傷した、その人たちへのケアの必要がまず頭に浮かびました。現地の看護師だけでは対応できないとすぐにわかりましたので、私は当時、日本看護協会の副会長の立場でもありましたから、日本看護協会現地対策本部を立てました。

その頃は、ボランティア看護職を調整する機能が神戸市にも兵庫県にもありませんでしたので、兵庫県立看護大学がコーディネーションの機会を得、全国の看護職を被災地に橋渡しする仕組みを作りました。これが、私が災害看護と取り組むきっかけになりました。

災害看護には救護班と看護班の2つが必要だった

従来、災害時に看護職に期待されていたのは、救急救命の救護班というものです。看護職は医師とチームを組んで現地へ行き、そこで負傷者たちをケアしていたわけです。しかし、ナイチンゲールが言ったように、看護職は、その人が置かれた生活状況を良くしていくことで死亡率を下げる力を持った職種なのです。それは直接ケガの治療をするだけではなくて、食べ物や衛生上の問題、空気や生活上の問題を解決する手段を講じることで、人が本来持っている生きる力を伸ばしていくというものなのです。

あの震災の時は避難所がたくさんできて、そこに看護師が入りました。その後、被災者は避難所から仮設住宅に移ったり、壊れかけた家の中や助かった家のなかで不自由な生活をしいられました。私たちは、そういう悪条件の中で被災者が健康を維持できるように、看護班と呼ぶ制度を作ったのです。看護班は、独自の公衆衛生学的な見方と福祉的な見方も合わせて、被災者の生活上のお世話をしていく、健康上の視点から看ていくということを実行しました。

そのため阪神淡路大震災について、世界の専門家は犯罪が少なかったことをよく取り上げますが、同時にヘルスサービスの専門家は、感染症が本当に少なかったと言います。実際、ご年配の方々が戦争中の体験からか、おにぎりを古い順番に食べてお腹を壊したという食中毒がちょっとあっただけで、ほとんど感染症が起こりませんでした。

食中毒はたとえ冬でも起こる可能性があります。それがなかったのは保健師さんたちもそうですが、環境を整える専門家がおり、みんなで体操をしたり、ほこりが舞っている場所の空気をきれいにする、共同トイレを清潔に保つなど、きちんと目配りをした専門家がいたからなのです。そういう意味で、災害時の看護には、救護班だけではない別の大切な役割があるということがわかったのです。

災害看護の経験と知識を共有し看護界の常識にしていく

あの震災では、私たちが経験しなかったこと、知らなかったことで、震災直後には対応できなかったことがいくつかあります。
たとえば、クラッシュシンドローム。これは家具の下敷きになったりして、毛細血管がつぶれてしまった人たちの病気です。大きなケガで大出血しているわけではないので、見た目ではわかりません。看護職はその人からいろいろ話を聞くのですが、その間にもどんどん悪くなって亡くなってしまうのです。

毛細血管がつぶれたために、血液の循環が悪くて酸素の供給も悪くなり、敗血症のようになって亡くなるのです。これに対しては人工透析しか手段がありません。しかし、看護職だけではなく医療関係者も、それまでクラッシュシンドロームを見たことがなかったために、ヘリコプターで一刻も早く人工透析に送るという認識が欠けていました。当時、13機あったヘリコプターのうち、使われたのは1機だけだったと言われています。

もう一つは、心のケアです。私自身もこういう体験をしました。
震災直後から私たちは毎日忙しく支援活動をし、おしゃれをしたり、レストランへ食事に行くなどとは考えもつきませんでした。こんなにたくさん苦しんでいる人がいるのに、という気持ちでいっぱいだったのです。でもそのうち、私たちは良いことをしているのですから、みんないきいきして当然なのに、人を責めたり怒ったり、何か職場の雰囲気がぎすぎすし始めたのです。

そんな時、サンフランシスコ地震を経験されているアンダーウッド先生が、教授会全体を対象にしたグループセッションの中で、「つらい人もいますね。でもできる人から元気になっていいのです」と言われたのです。この言葉で、いわゆる感情失禁というのですが、私をはじめみんな涙が止まらなくなりました。私自身も被災者の経験をし、自分の反応も見ました。そして私たち自身が涙を流すことで、癒されていくということがわかったのです。

私は、この経験を自分たちだけのものにしてはいけないと強く思いました。災害時独自の知識が必要であるし、被災者を助ける支援のための技術も必要なのだということがわかってきたのです。
短期に救護班でやったことも、中・長期に看護班でやったことも、これきりにしてはいけない。私は、知識はきちんと記録にとどめ、みんなで共有し、それを看護界にとって常識にしなくてはいけない、さらにそれを学問として高めなければと考えるようになりました。それで1998年に、仲間と一緒に日本災害看護学会を起こしたのです。

災害看護学という名前は、災害時における看護の経験を、体験から学んで知識として普遍化していく、さらに発展させていく、そして次の災害の時により良い方法で助けられるようにするという意味でつけました。

国際看護師協会(ICN)の活動を通して日本から世界に発信できること

私をICNの会長にといろいろな方に推していただいた頃は、日本看護協会の会長職にあり、かつ大学の教員もやりながらで、たいへんと思う気持ちと、ICNで何をやりたいかがはっきりせず、躊躇していました。

しかし、二つの事柄が日本から発信できると思うようになりました。一つは、日本における少子高齢化の経験。特に介護保険制度ができて、看護職が成功したこと、失敗したことがそれぞれあります。この経験を世界に発信しないといけない。

もう一つは、災害です。世界中で災害が起こっていますし、日本でも次々と災害が起こります。ですから日本災害看護学会、日本看護協会が学んだ災害の手立てを世界に発信する義務が私にはあるし、世界の災害看護に貢献すべきだと思ったのです。

自信はありませんでしたが、ICN会長に立候補した時、選挙運動の一つとして、日本看護協会会長として初めてアフリカに行きました。アフリカにとってエイズの問題はたいへん大きく、国民の38~40%が感染し亡くなっていく国もあり、国が滅びるくらいの課題です。
私はそれは災害と同じではないかと思い、アフリカのリーダーたちの前で、災害直後から中・長期的に看護界ができることを、日本の阪神淡路大震災のことを踏まえてお話ししたのです。結果として、アフリカの多くの国が私に投票してくださいました。「あ、これはメッセージが伝わった」と思いました。

ですから災害看護ネットワークを作ったり、2007年の横浜大会で「最前線の看護者たち:予期せぬ事態に立ち向かう」という、災害を全面に出した学会を開催しました。
2005年からICNの会長職につき、来年(09年)の6月で任期を終えます。今、ICNには、先進国にとっても発展途上国にとっても大きな問題であるマンパワー不足の問題や、看護職の役割拡大の問題など、たくさんの課題があり日々それらに取り組んでいるところです。

南 裕子 氏
【略歴】

1965年、高知女子大学衛生看護学科卒。72年、ヘブライ大学公衆衛生学修士課程終了。74年、高知女子大学助教授。82年、カリフォルニア大学看護学部博士課程終了、同年聖路加看護大学教授。93年より兵庫県立看護大学学長。99-2005年、日本看護協会会長。2004年、兵庫県立大学副学長。08年より近大姫路大学学長。05年国際看護師協会(ICN)会長、同年より日本学術会議会員、06年同会議看護学分科会委員長。
【研究分野】(研究課題)
災害看護に関するネットワーク形成とその効果について
リエゾン精神看護の効果に関する研究、看護における概念の検証
【主な著書】
『ナースによる心のケアハンドブック』(2000年、照林社)〔野嶋佐由美と共監修〕、『基本的セルフケア看護/心を癒す』(1996年、講談社)〔南裕子編〕、『地域精神保健活動論』(1997年、メヂカルフレンド社)〔南裕子監修〕、『阪神淡路大震災―その時看護は』(1995年、日本看護協会出版会)〔南裕子編〕、『看護における研究』(1999年、日本看護協会出版会改訂版)〔南裕子他〕、『看護系大学における研究の倫理審査体制の試案』(1998年、日本看護科学学会誌 18(1):60-70)〔南裕子他〕、『災害看護学構築に向けての課題と展望』(1999年、看護研究 32(3):177-185)
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