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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第164回 不動明王 2018/2
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 夕方。
 新人ナースの春日みゆきさん(26歳)が、男性の二人部屋の病室に入ろうとしています。日勤勤務の彼女は、先輩ナースに「金沢さんの点滴の追加を終えたら、あがってください」と言われて、本日最後の業務を遂行しようとしているのです。
 彼女は病室に入る前に廊下で立ち止まり、心の中でつぶやきます。
<金沢さんだからほっとしたけど、でも、この病室には、正直入りたくない>
 点滴を追加に行く、廊下側のベッドの金沢隆司さん(31歳)ではなく、窓側のベッドの石黒正造さん(70歳)の存在が彼女の顔を曇らせます。春日さんは、彼を心の中で<不動明王>と呼んでいます。
 ひと月ほど前、仏像見学が新しい趣味だという友達・加奈子さんにつきあわされたのが不動明王詣でした。
 火炎を背負い、目を見開き牙を見せた忿怒と呼ばれる表情をした不動明王を前にして、春日さんは怖くて思わず後ずさったのでした。
 それを横目でみていた加奈子さんがこう言ったのです。
「不動明王さまのどこがこわいのよ、ありがたくて勇ましくて、やさしさが溢れているじゃないの。すてき。不動明王を見てこわいと感じる人はね、悪や煩悩が勝っている状態の人なのよ。みゆき、そういう状態なんじゃないの?」
 春日さんは言い返せませんでした。
 大学を卒業して看護師免許を取得しましたが、4年間看護師以外のさまざまなアルバイトをしたのち、<これからは看護師の道を究めよう!>と決意して病院に就職しました。
ところが、新年を迎えたあたりから、硬い決意は急にトーンダウンしはじめ<いったん辞めたい>というおもいが膨らんできたのです。病院勤務のために寝るのではなく、夜になり眠くなったら寝て、寝たいだけ思う存分寝て、組織の人間として上司や同僚に気を使いながら過ごすことなく会いたい人にだけ会う、という生活をしたくなったのです。<この病院を辞めたって、また就職しようと思えばすぐに見つかるんだから>と考えるようにもなりました。
でも、だらだらと過ごすだけのために辞めたなら、のちの人生で後悔しつづけるような気がして、膨らむおもいをなんとか押さえこもうとしていたところでした。
そんな中、石黒さんが入院してきたのです。
彼が入院した日、彼女は夜勤でした。日勤のチームリーダーからの引継ぎが終わり、各病室のラウンドの際に石黒さんにはじめて会って春日さんは<あっ、不動明王!>と心の中でつぶやき一歩あとずさったのでした。石黒さんは、目を見開いてベッド上にあぐらをかいており、背後からその姿を照らしているベッドライトの光は火炎のように見えました。
石黒さんは「はい」「いいえ」「いいです」といった短い言葉を低く発し、ぎろりと睨む寡黙な方でした。彼に睨まれると春日さんは<いったん辞めてゆっくり過ごしたい>という願望を見抜かれているようで内心うしろめたくなりました。
また、採血した部分が内出血したときや、オーバーテーブルにコッヘルを忘れて取りに戻ったとき、血圧を測り忘れて消灯後に再訪たときなどに、「ごめんなさい。失礼いたしました」と頭をさげたのですが、石黒さんはわずかに頷いたあと無言でじろりと見返すだけでした。次第に春日さんは石黒さんが苦手になりました。もちろん、業務で必要な対応はしていましたが、できればベッドサイドを訪れたくないと思うようになったのです。
病室に入り、「金沢さん、失礼いたします」と声をかけ、ぴったりと閉められたベッドまわりのカーテンを少しあけます。お地蔵さんのような顔つきの金沢さんは、いつもより少し硬い表情ですが、春日さんを見るとニコリとしてくれます。ベッドサイドにはお見舞いの女性がきていました。この女性は口を尖らせ少々ぴりぴりした雰囲気です。
春日さんは説明をして点滴の追加をします。カーテン越しに、石黒さんのベッドライトが点いているのが見えます。声のない声で<おまえはここを辞めて怠惰な暮らしがしたいのか>と言われているような気がして、背筋がのびます。
点滴の追加を終え、挨拶をして退出しようとすると、金沢さんから声がかかります。
「春日さんだって、隠し事ありますよね」
「は?」
「ぼくがね、この人に隠し事してたってね、病室にまできて糾弾しようとするんですよ。もうね、別れたはずなのに、うざったいんです、この女」
 まさか、金沢さんがそんな台詞を発するなんて思いもよらず、春日さんは返す言葉が見つかりません。
「春日さーん、なんか言ってくださいよう。春日さん、26歳で新人ナースだそうじゃないですか。いろいろ隠し事ありそうだなあ、なんで黙ってるのかなあ、彼と過ごした夜のことで頭がいっぱいなんですかあ?」
 あまりの台詞にむっとして、春日さんは金沢さんを見つめますが、金沢さんはいつもどおりにこにこしています。
 と、そのときです。
「シャラップ!」
 男性の声が響きます。部屋のどちら方向から聞こえたのかわからないほど大きく野太く迫力のある声でした。金沢さん以外に男性は石黒さんしかいないのですから、声の主は石黒さんです。
「面会の女性と春日さんに謝りなさい!」
「はあ? 関係ねえだろ、じじい」
 金沢さんがへらへらした口調でかえします。
「出るとこ、出て白黒つけましょうか? いまのきみの発言、たまたまスマホに録音できたからね、ふっ」
 こんなに長いセンテンスがベッド上の石黒さんの口から発せられたのは、はじめてでした。

 その後、金沢さんは別のフロアに入院中の若い女性にセクハラをしていたことが発覚し、強制退院となったそうです。
それと、実は、同じ病棟の新人ナースの中で、自分だけ日勤リーダー研修がおそいことを気にしていた春日さんですが、それは実力の問題などではないことがわかり、今のところ辞めたいおもいは膨らまなくなったようです。

 春日さんは加奈子さんに、「不動明王、こわくなくなったよ。うちの不動明王、シャラップ! って言ってくれたんだ」とLINEを送ったとか。

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