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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第100回 記念日 2012/10
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 10月の日曜日。
 19時すぎ。
 5階西病棟(通称、5西)のナースステーションで、準夜勤のナース3人がパソコンに向かって記録中です。安定したリズムの心電図のモニター音とキーボードを叩く音以外に音らしい音はなく、室内には落ち着いた雰囲気が漂っています。今日の5西の患者さんたちの容態は落ち着いているのです。
 そこへ、白衣姿の女性がふらりと入ってきます。「お疲れさまでーす」
 5階東病棟(通称、5東)のナースの永沢みなみさん(29歳)です。
 5西のナースらが手を止めて永沢さんに挨拶します。
 「あっ、お疲れさまでーす。日勤だったんですか? だとしたら、ちょっと遅い感じですけど」
 「日勤で、定時に終わったんだけど、その辺で油売ってたのよ。今日は、こちらの患者さんも落ち着いているようで何より。ちょっと、いい?」
 永沢さんは、ナースステーションの奥にあるナース休憩室のほうを指さします。
 「どうぞ、どうぞ! 誰もいませんし。ごゆるりと」と5西ナースのひとりが返します。
 永沢さんは「サンキュ」と言いながらナース休憩室へ向かいます。5階の西と東の病棟は、「姉妹病棟」と名づけて親しく交流しているため、こんなふうに休憩室を訪ねあうも不自然なことではありません。
 永沢さんは3年前に、ここ5西から5東に異動したあとも、頻繁にここを訪ねています。実は、永沢さんにとって、5西のナース休憩室はちょっとしたパワースポットで今日は、それにまつわる記念日なのです。彼女は、休憩室に入ると、準夜勤の3人への差し入れのプリンを冷蔵庫に入れます。

 いまから5年前。
 当時の5西は、スタッフの大幅な入れ替えで5西に不慣れなナースがどっと増えたこと、一度に何人も病欠が出てしまったこと、などなどさまざまなマイナス要素が重なりに重なってナースたちはみな疲弊していました。
 そんなある日、数年間中断していた地域の「秋の花火大会」が復活するという情報が病院に届いたのでした。病院周辺の地域では、強盗や放火などうれしくない事件が続き、暗く重い空気が漂っており、不況で途絶えていた花火大会を復活させようと、商店街や地域の有志の人たちが中心になって動いたようでした。ほかの病棟の人たちや患者さんたちは、久しぶりの明るい話題として、花火大会の実施情報を歓迎していました。その花火大会は、大規模ではないものの、病院近くの空き地で打ち上げられるため、病院からよく見えるのです。
 永沢さんを含め5西のナースたちはまったく余裕がなく、「それどころではない」といった状態でした。5西ナース全員の眉間にしわが寄っていると、あるドクターに指摘されたほどでした。
 しかし、5西の何人もの患者さんたちが「花火を見る」という目標を持って闘病するようになったのを目の当たりにして、忙しいながらも、5西のナースたちは、患者さんたちの目標のサポートをしようというムードになっていったのです。
 そして、10月の日曜日、花火の日を迎えました。ナース3年目の永沢さん、同期入職ナースの平川さん、ベテランナースで日勤帯のリーダーの奥野さん、それと早出勤務ナースの鹿田さん、看護助手の島田さんが日勤メンバーでした。
 永沢さんと同期の平川さんがその日勤勤務を終えたのは、花火があがる直前の19時で、定時を大幅に超えていました。早出のナースと看護助手さんは定時で帰り、リーダーの奥野さんは子どものお迎えのために18時30分に走って病棟をあとにしました。
 この日勤で、なんと、患者さん5人が急変したのでした。状態は悪いながらも、なんとか持ちこたえていた患者さんたち4人が次々と急変し、もうひとり、意外な患者さんも急変したのです。その5人の患者さんたちは、みな、花火大会をたのしみにしていました。永沢さんは<花火を見るために、がんばりましょう!>と、急変した患者さんたちに、心の中で何度も声をかけ、みな全力で対応しました。そしてなんとか、その5人の患者さんたちは持ちこたえ、夕方には容態安定の方向に向かったのでした。起き上がって花火を見ることができる状態ではありませんが、駆けつけたご家族とともに、花火の気配を感じ取ってくれるだろうと、日勤メンバーで話しました。
 永沢さんは、この日ほど気持ちが張り詰め続けた日はないと思いました。急変した患者さんたちは、それぞれになかなか安定せず、頭をフル回転させ、さまざまに心配りをし、通常の日曜の日勤業務もすすめました。結局、食事をとるタイミングはないまま夜になっていました。
 勤務を終えた永沢さんと平川さんは、ふらふらとナース休憩室に入り、椅子にことりと座り、しばし呆然としました。
 ドンという花火の音が響き、ふたりは無言のまま立ち上がり、窓から夜空に顔を向けました。花火は、およそ30分、つぎつぎとふたりの目の前に広がり、ふたりの顔と、電気を消した休憩室内の冷蔵庫や電子レンジや歓送迎会の案内の張り紙を、ぱっぱっと照らしました。永沢さんは、ナース休憩室に包まれているような、不思議な感覚になりました。
 そして、彼女としては、信じられないことが起こったのです。花火が終わり、何気なく顔を見合わせた平川さんと、自然に握手とハグができたのです。
 永沢さんは、無理をせずに、人と握手をしたのははじめてでした。ハグはどうしても抵抗があってこれまでしたことがなかったので、行ったこと自体が人生ではじめてでした。実は彼女は、人の身体に接触することに苦手意識があり、人と握手をする必要があるときは、自分で自分に「握手するんだよ」と言い聞かせて行っていました。ケアのため患者さんにふれるときも、一瞬のことではありますが胸のうちで自分に気合いを入れていたのです。人にふれるのが嫌なのではなく、ふれる直前に自分の中に緊張が生じる感覚でした。永沢さんは看護師としてそれがコンプレックスでした。
 なぜか自然に握手とハグができた平川さんとは、同期ではあるものの、それほど親しい関係ではありませんでした。しかし、握手もハグも、身体が硬くなることはなく、逆に、平川さんのぬくもりや手や身体の感触がとても心地よく安心のようなものを感じたのです。
 そしてなんと、それ以来、永沢さんは、患者さんに自然にふれることができるようになり、苦手を克服することができたのです。いろんな要素が複合的に働いた結果だとは思うものの、この休憩室が花火とともに、特別なパワーをくれた気がしました。それで彼女は、秋の花火大会の日を自分が変わることができた記念日としたわけです。

 今年から、秋の花火大会は少し離れた場所で開催されることになり、この休憩室も病院の改築のためにもうじきなくなります。永沢さんは、遠くから小さく聞こえはじめた花火の音に耳を傾けながら、休憩室内をぐるりと見回し、じきに任命される予定の主任業務に前向きに取り組んでいくことを決意したそうです。

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