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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第104回 心配、停止 2013/2
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 夕方の某ナースステーション。
 引き継ぎ中のナースたちや、記録をするナースたち、受け持ち患者のカルテを広げる医師たち、看護学生などがごった返しています。
 そこへ、太く大きな女性の声が響きます。「丸岡です!」
 多くのスタッフが、声の主のほうに目を向けます。色鮮やかな服を着た大柄な丸岡志摩子さんが、ステーションの入口に仁王立ちしています。
 引き継ぎ中のナース二人が、<ああ、例の丸岡さんだね>という目配せをしあいます。そして、パソコンに向かって記録中の一年目ナース・亀田さんと、その隣で指示簿のチェツクをしている三年目ナース・新沼さんが顔を曇らせます。

 丸岡志摩子さんは、一週間前に手術をした丸岡純一郎さん(78歳)の妻です。
 丸岡さんの術後一日目の夕方、面会時間終了間際に、いきなり「シンパイ、テイシ」「シンパイ、テイシ」という志摩子さんの小さくはない声が、病室内に響き渡りました。
 隣のベッドで用事を終えた一年目ナースの亀田さんがあわてて確認すると、志摩子さんが、夫のベッドサイドで、スポーツの応援でもするかのように身体を左右にゆらしながら「シンパイ、テイシ」と繰り返していました。
 「すみません!」
 亀田さんは志摩子さんの二の腕に手を当て、それを制しました。
 「恐縮ですが、病棟内では、お静かにお願いいたします。ご主人は安静が必要な時期ですし、ほかの患者のみなさまも安静が必要ですので」
 一年目の自信のなさが小さな声に出ている亀田さんですが、ここは看護師の責任としてしっかり言わなければと思い、小さいながらもはっきりとした声で言いました。
 そこに、面会時間終了の院内アナウンスが流れ、志摩子さんは不満そうに黙ってバックを持ち、帰ろうとします。その背中に向かって、亀田さんは付け加えます。
 「それと、さきほどの言葉ですが、医療では、心臓と肺の停止のことをシンパイテイシといいますので……あまり」
 「あっそ、じゃ、パパ、また明日ね」
 志摩子さんは眠っている夫に声をかけ、亀田さんのほうへは顔を向けずに帰っていったのでした。丸岡純一郎さんは、手術の関係で数日間は声を発することができない状態です。

 その翌日、面会時間となった15時過ぎに、また丸岡さんの病室から志摩子さんの「シンパイ、テイシ」の繰り返しが廊下にまで聞こえてきたのでした。
 日勤勤務の亀田さんと、彼女のプリセプターの新沼さんの二人でその場にかけつけ、新沼さんが言いました。
 「恐れ入ります。昨日、亀田からもお願いしましたが、お静かに」
 「あら、いまはまだ昼間よ。それに、同室の方だって退院なさって今日はベッドも空じゃない。ほかの病室の方からも苦情は来ていないんでしょ」
 志摩子さんは口を尖らせました。
 すると、新沼さんが毅然とした態度で返しました。
 「困ります! それと、その言葉についても、昨日、亀田が説明しましたとおり、病院では、少し障りがあると思われますので、おやめください」
 「え? 亀田さんっていうの? この人。この人ね、昨日、医療ではどうのこうのってぼそぼそと言ってたけど、ダメだとは一言も言いませんでしたよ!」
 「そうでしたか、わかりにくかったのですね。失礼いたしました。とにかく、その言葉はご遠慮願います」と新沼さんはきっぱり言いました。  「なによ、一方的に。私は、意味なく大声をあげているわけじゃないわよ!」
 「失礼いたしました。では、その言葉の意味をおしえていただけますか?」
 「心配するのを、止めるって意味に決まっているじゃない。なによ! その馬鹿にしたような顔! それから、変人を見るような目。妻が変人だからって、主人の世話の手を抜いたりしないでくださいよね。まったく、患者もその家族も弱者だってことを忘れないでもらわないとね!」
 そうまくし立てて志摩子さんは病室を出て行き、しばらくして戻ってからは、面会終了時間まで黙って夫の寝顔を見つめていたのでした。

 その翌日から、志摩子さんは売店横のラウンジや病棟内の自販機前のスペースなど、院内の各所で、居合わせた患者さんや、誰かの面会にやってきた人に次のように語るようになりました。
 「心配、停止というのはね、私たち夫婦にとって、お互いにエールを送る意味のある、いろいろと歴史ある言葉なんです。それを、きちんと意味も聞かないで鼻で笑って、頭ごなしにダメだというわけです。患者である主人は人質のようなものですからね、あまり意見を言うと、文句と受け止められて、主人への対応に悪影響があったら困りますからね。だから私は何も言えず、しゅんとなるしかないんです。みなさんに聞いていただいて気を紛らわせでもしないと、辛いですからね。私のような大人しい人間でなければ、訴訟なんてことにもなりかねない問題ですよ。その看護師さんというのは、亀田さんという人と新沼さんという人なんですけどね」

 今朝、その事実が、売店のスタッフから病棟に電話で知らされたのでした。一度、時間をとってカンファレンスルームで志摩子さんと面談しようと話していた新沼さんと亀田さんは、目を丸くし、気の重い問題に発展していることを認識したのです。夕方、師長会から看護師長が戻ったなら、対応を協議しようと主任と話し合い、師長の戻りを待っていることろでした。
 そこに、志摩子さんが登場したのです。訴訟などといった言葉が彼女の口から飛び出るのでは、と新沼さんと亀田さんは不安になります。
 と、志摩子さんの表情が仏頂面から穏やかなものに変化します。そして、彼女が口を開きます。
 「見ず知らずの男の方に、さきほど諭されました。新沼さん、亀田さん、お仕事、がんばってくださいね」
 そういうと志摩子さんはぺこりと頭をさげ、その場をあとにします。

 それ以来、志摩子さんは人が変わったように穏やかになり、夫の退院の日まで例の言葉を連呼することも、院内で不満を言いふらすこともなかったそうです。売店のスタッフ情報によると、志摩子さんを諭したのは、私服姿の院長だったとのこと。私服姿の院長は、一部からは隠密院長と言われ、職員でも気付かない場合があるほど院長とはわからないルックスになるのです。志摩子さんが、例の不満を数人に語っているところに通りがかった隠密院長が、「ご主人のことが心配でたまらないんですね」と声をかけ、彼女の背中をさすったそうです。すると、志摩子さんは堰を切ったように泣き出し、うんうんとうなずいたといいます。そのあと院長は、ナースたちがどれだけ頑張っているかなどを彼女に語ったそうです。

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