Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第105回 前残業 2013/3
dotline

 秀島静香さん、24歳。
 先日の師長会で「前例にないことをする人」として話題になったキャリア2年のナースです。
 秀島さんが勤務している病院では、始業定時前、いわゆる前残業は労働時間として申告しないことが暗黙のルールになっています。そのため、就職したばかりはみな早めに出勤して情報収集などを行うのですが、慣れてくるにしたがって、始業時間ぎりぎりに出勤するようになります。残業するのなら、残業代のつく定時後に残業を行ったほうがよいという発想によるものです。
 しかし秀島さんは、みなとは違いました。仕事に慣れるにつれて、早めに出勤するようになったのです。引き継ぎの30分くらい前に出勤する新人が多い中、現在の彼女は40分くらい前に出勤します。
 彼女としては、引き継ぎを受ける前にしっかりと情報収集など必要な準備をしておくことが、仕事が最もスムーズかつ安心・安全に進めることができると実感して、そうしているのです。
 そのことに対し、同僚たちは次のように批判的でした。
 「残業代が出ない前残業をされると、今以上にボランティア残業を受け入れます、みたいな空気になってしまうんじゃないかしら」
 「時間になったら必ず帰らなきゃならない時短の私にも、前残業をして補えって言われてる気がしちゃう」
 「早く来て、自分で確認しないと気がすまないのは、引き継ぎを受ける相手を信頼してないのかな、とも思えてくる」
 「協調性がないと思う。今後、彼女は浮いた存在になっていくと思う」
 その雰囲気を感じていた秀島さんは、ある日の昼休み、多くの同僚がそろっている休憩室で言いました。
 「いつも、勤務時間より早く入って、申し訳ありません。私の場合、どう考えても、早めに入って準備したほうが安心だし効率的なんです。仕事について自信がつけば、決断ができると思いますので、いま少し、いまのやり方を続けさせていただけないでしょうか」
 秀島さんは、みなの目を見ながら真剣に訴えました。彼女は、気のいいおとぼけタイプで、みなに嫌われているというわけではありません。みんなは「仕方ないか」という表情になりました。
 秀島さんは、心の中で、いまの自分の状況をかえられなければ、臨床からはなれ、場合によっては看護師を辞めなければならない、とまで考えるようになっていました。まだ、丸2年の経験のみなのだから当然ではあるけれど、自分の未熟さでインシデントやミスが起こるのではないかと内心とても不安な毎日で、同じ2年目の看護師が始業時間直前に出勤してくるのを見るたび、自分にはとてもじゃないがそれはできないと思うのでした。どうしてこんなにも、もうすぐ3年目のキャリアとなる、それなりの自信が自分は持てないのだろうと疑問でした。

 そんなある日のことです。
 午後、記録中の秀島さんに、ベテラン医師Kがこういいました。
 「3号室の井上さん、これからすぐに気管切開しますので、準備よろしくお願いします」
 井上さんは、午前中に緊急入院した方です。奥様が別の病院で明日手術をする予定で、彼から奥さんに15時に電話することになっており、電話で直接声をかけて励ましてあげたいと、アナムネをとった秀島さんに彼は語ったのでした。
 時刻は14時50分。秀島さんは即座に、井上さんのベッドサイドに行き、そして、ナースステーションに引き返してきてKに言いました。
 「先生、15時5分から気管切開開始とさせてください。少しお待ち願います」
 15時の電話の件も加えて説明しました。
 「ん? なにをボクに指示してるの。本人のOKもとってるし、ボクは本当は15時から実に実に重要な用事があるのだけれど、井上さんは早く気切したほうがいいから、それを待っていただくよう、いま重要な用事の相手に電話入れたんですよ。すぐに実施します」
 Kの「ん?」は、大きな不快を表し、次に声を荒げるだろうニュアンスのある響きでした。Kは、若い看護師から意見されると機嫌を損ねて怒り爆発するので、そうならないよう、みな気を使って接しています。怒らせると実に面倒くさいタイプなのです。
 井上さんは気管切開をしてしまったなら、しばらくは、声を出せません。長引く怖れもあります。秀島さんがさきほど井上さんに確認したところ、息苦しそうながらもできれば15時に妻に電話をしたいと言いました。井上さん夫妻にとって特別な意味のある電話であるらしいことを、秀島さんは感じとりました。
 いつもの秀島さんなら、ほかの若手看護師と同様に、Kに強くは言えないのですが、この日は違っていました。
「先生、少しお待ち願います! これは看護上の判断です。お願いします!」
 毅然とした態度で、Kの目をまっすぐに見て言いました。彼女自身、自分が、なにかのスイッチでも入ったかのように堂々としていることが不思議でした。
 秀島さんの気迫に呆気にとられたのか、Kは彼女の言われるとおりにし、井上さんは、奥様に電話で直接話すことができたのでした。

 その日の夕方。日勤を終えた大勢のナースたちが休憩室で院内研修会の開始を待っていると、秀島さんが言いました。
 「みなさん! 不肖、秀島、一歩を駒を進めることができたような、少し自信のような、そんな感覚を得ることができました」
 「うん、今日は、井上さんの件、よくやったかもね」とベテランナース。
 「で、脱皮できそうな気がします」と秀島さん。
 「おー、いいじゃない」とベテランナース。みな、例の前残業の件、みなと足並みをそろえる決心がついたのだろうと思いました。
 秀島さんが胸をはって言いました。
 「明日からは、前残業をきちんと申告し、時間外労働として残業代がつく方向を、病院に検討してもらうように働きかけていきたいと思います。前残業が向いている看護師もいると思うし、いままでは自分の未熟さゆえと思うと残業代を請求するなんておこがましいと思っていましたが、そういう発想は労働者としてよくないという考えにも自信が持てた気がします」
 「え? そっちの決心だったの?」
 予想外の宣言に、みな目を丸くしました。

 そして秀島さんは、はじめて、前残業の時間を労働時間として申告した人となったのです。ちなみに、2年目の看護師に意見をされて、Kが爆発しなかったというのも前例がなく、はじめてのことだったそうです。

ページの先頭へ戻る