Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第106回 通りがかり 2013/4
dotline

 平日の午前中。
 駅に隣接したデパートの最上階にある本屋さん。
 菅野琴美さん(30歳)が文庫本を手に取り本のカバーの解説文を読んでいます。
 彼女は、近くの総合病院の内分泌系の病棟に勤務している看護師です。普段なら深夜明けには、直帰して入浴して倒れこむように横になるのですが、今日は深夜勤務を終えた足でデパートにやってきました。ハードな勤務を終えた日は、独特の味と風味がある具がたくさん入っている、このデパートにしか売っていない肉まんが無性に食べたくなるのです。
 琴美さんは、本の文字を目で追っているものの、内容が頭に入ってきません。少し前に、地下の食品街のトイレ前で起きたことに動揺しているのです。

 30分前――。地下一階で、目当ての肉まんを買った琴美さんは、エレベーターに向かう途中に、トイレの入口前で車椅子に乗っている男性に気付き、気になってそばに行きました。彼が座っている車椅子の周辺に、みかんやりんごがばらばらところがり散らばり、それが入っていたと思われる袋がやぶれて落ちていました。タレントのタモリさんに似た印象のその男性は、そのみかんやリンゴのほうを見ないで、正面を向いて動かないでいました。
 琴美さんが声をかけてみると、その男性には視力障害があり、付き添いの奥様がトイレに入っているのを待っているところなのだが、買い物をした果物の袋を落としてしまったのだとわかりました。
 琴美さんは、バッグの中に必要時のためにと忍ばせていたコンビニ袋を出して、ころがった果物をそれに入れて男性に渡し、彼と雑談をしました。奥様がトイレから出てくるまではそこにいようと思いました。
 すると、男性が琴美さんに言ったのです。

 「もしかして、あなた、看護師さん、じゃないですか?」
 「は? まっ、そうですけど、どうしてわかったんですか?」
 「ボクに声をかけたあと、車椅子のストッパーをすぐに確かめたこと、果物を拾ってくれる前に私にそうしていいかを確認したところ、余分にコンビニ袋を持っているなど準備がいいタイプであること、それから、家内がトイレから出てくるまでは付き添っていようとしているところ、それから声のかけ方とか、それと、なんとなく感じる雰囲気がね」
 「するどいですね」
 「ふふ、伊達に視力失ってませんからね」
 女性トイレが混んでいるのか、彼の奥様はなかなか姿を見せず、そのあいだ彼は、糖尿病によって視力を失ったことなどを語りました。
 そして、彼はこういったのです。
 「少し前のドラマで、現代の医者が江戸時代にタイムスリップするというのがありましたね。あなたのような看護師さんにタイムスリップしていただいて、そうだな、二十年前のボクに、厳しく指導してくれないかな、<きちんと自己管理しなければ、失明してしまうのよ!>ってね。ふふ」
 「…………」
 琴美さんは、急に黙ってしまいました。
 彼女は、看護師になって入職して以来、ずっと同じ病棟で勤務してきました。そのため、何人もの糖尿病の患者さんの担当をしてきました。糖尿病は食事管理が大事になりますが、なかなか思うように管理できずに悪化してしまうケースも多く、看護師になりたてのころは、タイムスリップして患者さんに、自己管理の重要性を訴えに行きたいと本気で考えたこともありました。
 しかし、キャリアを重ねるにつれ、タイムスリップしたり時間を巻き戻したりすることは絶対にできないから、少しでも患者さんが後悔をしないように援助を精一杯行うのだ、と考えるようになりました。それが根気よく援助をしてゆくモチベーションとなっているのです。
 ゆえに、患者さんから軽くタイムスリップして、などと言われると、正直なところむっとして、虚しくなり、投げ出したくなるのですが、プロとして感情をおさえこみ、冷静に対応するのです。
 しかし、トイレ前で奥様を待つこの男性とは、琴美さんは仕事でかかわっているわけではありません。通りすがりの関係です。それで、琴美さんはつい感情を出してしまったのです。
 「あの、私、糖尿病の患者さんとこれまでたくさん接してきた看護師です。タイムスリップなんて絶対に絶対にできないので、日々、患者さんが、今後、後悔がないようにと考えて真剣にケアしているのです。ですから、そんなこと、軽々しく言われると、正直、不快です! 失礼します」
 言葉が口からぽんぽんと出てきてしまったことに困惑しながら、琴美さんはその場をあとにしたのでした。

 感情的になってしまったこと、そして、奥様が来るまで待つはずだったのに、その前にその場をあとにしてしまったことをエスカレーターに乗りながら考え、彼女は狼狽しました。
 帰ろうとして本を棚に戻している琴美さんに、ひとりの女性が声をかけます。
 「あの、もしかして、さきほど、地下のトイレ前で夫に親切にしてくださった方ではないですか?」
 さっきの男性の奥様のようです。琴美さんは、「はい」といって顔を曇らせました。男性は琴美さんの言葉に怒って何かを言いにきたのではないかと思ったのです。
 女性は一瞬姿を消し、すぐに、先ほどの男性の車椅子を押してあらわれました。
 男性がいいました。
 「あなた、さっきの看護師さんですね。不快にさせてしまって悪いことをしてしまった。ついでだし、あなたはぼくを担当している看護師さんじゃないからね、この際言わせてもらうけど、看護師さんてのは、どこかぼくに教育的な、言い含めるような感じがあって、気に入らないときがあるんだ! むかつくときがある! こっちだって不快なんですよ!」
 と、そこまでいうと、奥様が「あなた!」と叱るように男性にいいます。
 男性は、「ふう」と息を吐き、笑顔になり、いいます。
 「いいですねえ、こういうの。あなたも、ぼくも、通りかがりの相手だから、言いたいことを言えた感じですね。なんか、すっきりしたな。ありがとう」
 奥様が、デパートの抽選券を琴美さんに差出しながら、いいます。
 「これ、落としませんでしたか? 主人が、あなたのかもしれないからって」
 琴美さんは、ポケットに入れておいたはずの抽選券がなくなっているのを確認し、「すみません」といって券を受け取ります。
 すると、男性が言います。
 「せっかくの抽選券だから、届けなきゃと思いましてね。ここのデパートの肉まんの袋を持っていて、運動靴やスニーカーを履いている若い女性を、妻に探してもらってたんです。嗅覚と聴力は、この状態のお陰でパワーアップしましたから、そうだ、探偵とかできるかもしれませんね! じゃ」

 帰宅して肉まんを頬張りながら、琴美さんはデパートに寄って良かったと思ったそうです。

ページの先頭へ戻る