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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第107回 ハスキーボイス 2013/5
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 午後。里山の温泉宿。
 露天風呂に、女性がひっそりと浸かっています。雲が一つぽっかりと浮かんでいる穏やかな晴天で、小鳥が機嫌よさそうにさえずっています。

 女性は、看護師の風間小枝子さん(39歳)で、昨日の深夜勤務明けに思い立ち、一人でお気に入りの宿にやってきました。昨日と今日の連泊とし、部屋についている露天風呂に入ったり、畳の上に寝転がって外を眺めたりして過ごしています。
 風間さんは、数日前に退院した患者の谷田川静恵さん(49歳)とのやりとりを思い出し、ため息をつきます。谷田川さんは、風間さんが勤務する病棟に入院し、乳がんの手術を受けた方です。
 谷田川さんは、手術の前夜に、退出しようとする風間さんの手首を掴んでこう言いました。少し鼻にかかったような特徴のあるハスキーボイスです。
「ちょっと待って。手術を明日に控えた心細い患者のために、あなたの時間をもう一分くださいな。なんか、明るい話題をお願い。さっ、一分間スピーチ、開始」
 咄嗟に風間さんは、コンビニスイーツの新商品について話したのでした。すると、谷田川さんは笑顔になっていいました。
「あなた、話題選びのセンス、いいわね!」
 それ以来、谷田川さんが退院するまでに、風間さんは計7回、一分間スピーチを頼まれ、応えたのでした。谷田川さんは、風間さんだけにそれを頼むので「気に入られたのだな」と思い、悪い気はしませんでした、7回目のスピーチをするまでは――。

 退院を翌日に控えた谷田川さんは、消灯時間で病室に回ってきた風間さんの姿を見てニコリとしました。
「あっ、風間さんだ。最後の一分間スピーチ、頼みたいわ」
「明日、ご退院ですものね。では、ご要望にこたえてとびきりのスピーチを、ちょっとほかの用事を済ませてまいりますので、少しお待ち願います」
「そう、わかったわ」
 風間さんは、いつもより楽しい話題を提供しようと、話す内容をあらかじめ考えていました。
 そして、他の急用に対応したあと、次のように谷田川さんの要望に応えたのでした。
「では、スピーチ開始します。谷田川さんの声はとっても独特で二人といないチャーミングなハスキーボイスです。でも、他人の空似というのは声にもあるのかもしれませんね。実は、とってもよく似た、いや、限りなく同じ声の持ち主に私、会ったことがあることを思い出したんです。二十年ほど前の看護学生だったときに実習で受け持たせていただいた女性です。その方も、谷田川さんと同じご病気でした。私はベッドサイドに座って、たくさん、いろんなお話をさせていただきました。ご家族の話とかも伺いました。独特の味のあるお声だったのはいまも鮮明に覚えています。素敵な大人の女性でした。谷田川さんと同じで」

 話し終えた風間さんが覗き込むと、谷田川さんは、いつの間にか、憮然とした表情になっていました。そしていいました。
「最低の、テーマ選びね。とても不快」
 独特のハスキーボイスがいつになく低く、ドスのきいた感じに響きます。
「……」想定外の展開に風間さんは驚き、そして困惑してしまいました。
「あなた、ベテランナースのくせに、いま、個人情報の漏えいをしたわね。あのね、私と同じ声のその人はね、二十年前、乳がんで手術した私の母親ですよ。そのとき、あなたにはさぞや、素晴らしい家族だとかなんとか話したんでしょうね。結婚して苗字も変わり、外見は化粧やなんかでどうにでも変えることができるけど、声はね、どうにもできないから、忌々しいのよ、電話に出たら家族だって間違えるくらいその人と私の声は似てるのよ。私はこの声、大嫌いなの! あなた、最後の最後に、やってくれたわね。もういい、出てってください、お願いします」
 そう言うと谷田川さんは目を閉じてしまい、風間さんが声をかけても応えてくれませんでした。

 風間さんは落ち込みました。話の内容は個人情報の漏えいとは言えず、自分の対応に非があるとは思いませんでしたが、自分の言動が患者さんを不快にさせたことは事実です。また、自分のスピーチが喜ばれて調子に乗っていた部分があり、それを反省しました。この準夜勤務の翌日は休みでした。ベテランナースとしては、看護師と患者さんとて人間関係としてのあれこれが生じるわけで、いちいち気にしていられないのだ、と考えることにしましたが、気分の晴れない休日となりました。

 その休みの翌日に日勤勤務についた風間さんは、同僚からの一言で、なんともやるせない気持ちになりました。
「昨日退院した谷田川さんからの伝言です。最後のあの話は嘘だから、気にしないでということでした。あの話ってなんの話ですか? 谷田川さん、風間さんがお気に入りでしたからね」
 嘘? なぜにそんな嘘を? それに、気にしないでって、どうしてそんなに軽く言えるの?
 またもや想定外の出来事に、風間さんは絶句してしまいました。
 そして、考えれば考えるほど、嫌な気分になっていきました。谷田川さんは、私がお気に入りだったのではなく、いちばん嫌いなタイプだったのかもしれない、などとも考えました。また、私に気にしないようにするために、本当は嘘ではないのに嘘だと伝言したのかもしれない、とも。いずれにしても伝言の中に詫びの言葉がないのは納得できませんでした。

 風間さんは、<こういうふうな出来事も、コードホワイトのうちだと思うんだけどねえ>と独り言を言って、露天風呂から上がります。そして、ふたたびため息をつき、冷蔵庫から冷えたビールを取り出します。

 風間さんは、今回のような出来事をさしあたり保留にすることができるようになったことが、キャリアを重ねた証のような気がするそうです。とりあえず無理には突き詰めず、またいつか思い出したときに考えよう、という心の治め方ができるようになったそうです。

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