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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第108回 種田家 2013/6
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 早い午後、訪問看護師の岸本紀久子さん(29歳)は、車を走らせながら、これから訪ねる利用者・種田洋子さん(55歳)に対して行うべきことを頭の中で確認します。そして<今日も、種田家のにぎやかな合奏を全身にあびて元気をいただくとするか>と心の中でつぶやき、クスリと笑います。
 種田洋子さんは、父親と妹と三人で住んでいます。この種田家は、声やそのほかの音がいつも大きく、それを岸本さんは正直なところ最初はうるさく感じました。
 居間の隣の部屋でベッドに横たわる洋子さんは、そばにいない家族を呼ぶときに、ベッドサイドにぶら下げたトライアングルをチーン、チーンと鳴らします。妹はピアニカがストレス解消で、いきなり「きらきら星」を吹き始めたりします。そして、この姉妹は、ひまさえあればポンポンと口喧嘩ばかりしています。また、母親のような雰囲気を持った洋子さんの父親は、いつもせわしなく動いているのですが、うっかり屋さんで、物を落としてしまったり、熱い鍋にさわって声をあげたりして、動きながら何かしらの音を発しているのです。それと、種田家の愛犬であるビーグル犬の「ビー」が、よく吠えるのです。さらに、種田一家は全員がテレビ好きで、BGMのように一日中テレビをつけっぱなしなのです。

 時が過ぎ、種田家の音量に慣れてきた岸本さんは、それを「うるさい」ではなく「にぎやか」だと思うようになりました。種田家のにぎやかさから、小学生が学習発表会で披露する合奏を聴いたときのような懸命さを感じました。洋子さんは脳卒中後に左半身マヒとなりリハビリをがんばっています。父親は洋子さんの介護をがんばっています。そして妹は、一家の稼ぎ頭としてバー勤めをがんばっています。それでも三人は、がんばっているなどとは一言もいわず、それぞれに音を発しながら日々を生きているのです。

 岸本さんは、ある日、種田家を訪問したあとに、自分も少し声が大きくなり、活気づけられた感覚になることに気づきました。友人が何気なく「妊娠したとき、無性にパチンコ屋に行きたくなって、通ってた。あの、大音量の中にいるとすごく落ち着いたの」と語ったことを思い出し、<私は種田家の大音量に癒されているのかも>と考えました。
 先日、岸本さんが訪問した際に、姉妹は靴のことで喧嘩していました。洋子さんは靴、とくにパンプスが大好きで、インターネットで赤いパンプスを購入してベッドサイドに飾っているのですが、それについて妹さんがケチをつけ喧嘩がはじまったのです。妹さんが、岸本さんに言いつけるように言いました。
「昔、若いころ、私が履いて出かけるはずだったのに、朝、おニューのその靴が玄関にないのよ。姉さんがね、勝手に履いていっちゃったわけ。結局、服に合わない変な靴で出かけるはめになってね。何度もね、そういうことあったの。この趣味の悪いパンプス見ると、思い出して腹が立って」
 すると洋子さん。
「あなただって、私の高価な訪問着をパーティに着てって、赤ワインこぼしてダメにしたじゃない。弁償するっていって、まだしてもらってない。それから、クリーム色のシフォンのワンピースにもワインこぼしてダメにしたじゃない。どれだけ人の服をダメにしてるのよ。私が靴借りたくらいのこと、言えた義理じゃないでしょ」
「なによ、ほかの恨みも言ってほしいの?」
「なに、やる気?」
 二人は、岸本さんが血圧測定をはじめると口論をやめました。そして、妹は隣の部屋でピアニカを吹きはじめたのです。そのあいだ、姉妹の父親は、さまざま家事をしながら「あー」「わあ」と声を出し、犬のビーは粗相をした咎で檻がわりの浴室からキャンキャンと鳴き続けており、それらの音は、ジャズのセッションがヒートアップしたようでした。
 岸本さんが帰ろうとすると、洋子さんがトライアングルを鳴らして台所にいる父親を呼び、ピアニカは鳴り止まず、チーンに反応した父親が大量の食器を落としてその音がして、何事かとビーは浴室でさらに激しく鳴き続けたのでした。種田家をあとにして車を運転しながら岸本さんは思いました。<赤いパンプスの趣味をあれほどけなして喧嘩しても、洋子さんがその靴を実際に履くことは今のところ無理であることについて妹さんは決して言及しないのよね>

 車を駐車した後、岸本さんは、種田家の玄関チャイムを押します。すると、いつもなら、ドアを開ける前から、犬のビーがキャンキャンと鳴くのが聞こえてくるのですが、聞こえません。カチャリと鍵が開けられて玄関には入ると、そこには元気のなさそうな妹さんが立っており、そのうしろからビーが吠えずにトコトコと現れました。
 種田家がシーンとしています。なんと、テレビの音も聞こえてきません。ほかの訪問先なら、ごく普通の静けさですが、種田家の場合は異常な静けさです。何かあったんだろうか。何も連絡は受けていないけど……と岸本さんは急に不安になります。
 そして、岸本さんの脳裏に辛い記憶が蘇りました。彼女の前の職場は、亡くなる患者さんが多い病棟でした。心電図のモニターの波形がフラットになると同時に鳴るアラーム音が、耳を塞ぎたくなるほど大音量のように思えて、岸本さんはとても苦手でした。さらに苦手だったのは、機能上、心停止を報せる心電図モニターのアラーム音をオフにするスイッチはないため、鳴り続けるのを停止するために電源を抜くという対応をすることがあったのですが、その電源を抜いたあとの静寂は、アラーム音より何倍も辛く寂しい感覚となり、岸本さんは胸がしめつけられるような苦しさを覚えたのでした。
<なんで、こんなことを思い出すんだろう、こんなことを思い出してはだめ。今日はたんに、いつになく種田家が静かだというだけ>
 岸本さんは自分にそう言い聞かせながら、洋子さんの部屋に入ります。
 はたして洋子さんは、なんとなく浮かない表情をしているものの、状態が悪い様子ではなく、岸本さんは内心ほっとします。彼女の父親も変わりはない様子です。しかし、種田家全体の音量は、いつもの十分の一程度で、それは実に異様な感じです。
 と、姉妹の父親が台所のほうに行ったのを横目で見て、洋子さんのバイタルサインを記録している岸本さんに、妹が姉に目配せしながらささやきます。
「父、もしかして認知症かもしれないから、どこの病院に行ったらいいか教えてください」
 姉妹の父親がいつも予定を書き込んでいるカレンダーに、妹さんの娘さん、つまり彼の孫娘が、数日前に遊びに来たかのように「美咲、来る」と事実にはないことが書いてあり、姉妹は急に心配になったようなのです。
「なに、こそこそと話しているんだ」
 姉妹の父親がやってきて、姉妹は口をつぐみます。
 妹さんがぼそぼそと、「美咲、来る」の件を父親に確認すると、独立してひとり暮らしをしている美咲さんとひそかにメールのやりとりをしており、カレンダーに書き込んだ日は本当に来る予定だったけれど、急に来られなくなったのだということが判明しました。
「なんだ、おまえたち、おれがボケたと思ったか、ふん」
 そのセリフをきっかけに、種田家はぐんぐんと音量があがり、いつものジャズセッションのようなにぎやかさに戻ったそうです。

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