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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第11回 ナースを辞める? 2005/4
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 一人で、コーヒーを飲みながらじっくりと文庫本を読もうと思い、昔ながらの喫茶店に入った先日の午後のことです。席についてオーダーを済ませて本を開くと、すぐ後ろのテーブル客の話が聞こえてきました。
「看護師になってまだ一年だからなあ」
 中年の男性の声です。看護師という言葉に反応して、思わず振り向いて確認すると、五十代前半と思しき男女二人が並んですわっています。ご夫婦という雰囲気です。続きの話を聞いてみたい気がしますが、人様の話を盗み聞きするのはよろしくないし、久しぶりに喫茶店で読書するのだから、それに専念したいとも思いました。
 しかし、気になります。看護師になったというのは誰なのだろう。中年男性の娘さんだろうか。いや、彼自身という可能性もある。私は、それを確認してから読書にいそしもうと決めました。
 本を読んでいるふりをしてしばらく話しを聞いていると、看護師になったのは彼の娘のアツコさんという人らしいことがわかってきました。
「アツコのほうからオレにね、しかもオレの携帯に電話してくるなんてほとんどないのに、深夜に電話してきてさ、第一声が<お父さん、助けて>だもの。驚いたよ」
「あ、そう」
 女性の受け答え方は、わりにクールで、彼の奥さんというより妹あるいは友達といった関係かもしれません。それにしても、<助けて>だなんて、アツコさんの身になにがあったのか、気になって読書をはじめられません。
「でね、<もう、あたし、ボロボロ>って言うんだ。大事な娘がボロボロだなんて、父親として、それほど悲しいことはないだろ。しばし言葉を失ったよ」
「絶句しちゃったの?何か言ってあげないとだめじゃない」
「言った、というか聞いたよ、なんでボロボロになったんだって。そしたら、泣きながら、学生時代勉強したことが業務にぜんぜん活かせないし、先輩からは毎日人格否定させるような言い方されるし、って言い出してさ」

 最近、ナースの早期離職率の高さが新聞にも取り上げられるなど問題になっています。
「それでアツコが、<だから、父さん、病院辞めようと思うんだけどいいよねって>言うんだ。困っちゃったねえ。オレも会社では管理職だろ、一年目の社員がそう言い出したときの対応は心得ているつもりだ」
「でも、娘は別なのね」
「そう。可哀相で可哀相で、<辞めたあとのことをきちんと考えているならいいだろ>って言った。そしたらアツコ、<しばらく火星、つまりマースに滞在して充電してきたい>って言うんだよ。火星だなんて、<なにもそんな遠いところに行かなくても>と言ったら<実はもうチケット取っちゃったの>って言うんだ」
「火星ねえ、ふふ」
 火星って一体……。話が急におかしなことになっています。それに、となりの女性も驚いている様子がなくておかしい。
 と、そこへ、店に若い女性が颯爽と入ってきて、例の男女の向かいの席に座ります。
「どうしたの? 急に出てきちゃって」と若い女性。
「ごめんね、アツコ、急に呼び出したりして。父さんね、アツコが泣きながら電話してきて、もうボロボロだから病院辞めるって話す夢を見たって言うの。正夢だったら大変だから、様子見に行きたいって言ってね」
「それで夫婦揃ってやってきたの?」とアツコさん。やはりご夫婦だったようです。
「そうなの。母さん、止めたんだけど、父さん、絶対行くって」と奥さん。
「父さん、大丈夫だよ。大変なのは大変だけど、辞めるつもりはないし」とアツコさん。
「あら、お父さん、涙ぐんじゃって。余程安心したのね」と奥さん。
 感極まったのか、アツコさんがきてから一言も言わない(あるいは言えない)男性でした。
 彼らの話を聞き終えると、もうずいぶんな時間になってしまい、結局は読書しないまま私は店を出ました。
 それにしても、男性の夢の中で、アツコさんが泣きながら言ったという、ボロボロになった理由が非常にリアルでした。正夢ではなく、アツコさんの、言葉どおり大丈夫であってほしいです。

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