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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第110回 肩たたき券 2013/8
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 夕方の某個室病室。
 一ノ瀬洋子さん(66歳)がベッド上に横たわり、寝息をたてています。
そのベッドサイドに彼女の一人娘の麻紀さん(36歳)が、母親の顔に時々目をやりながら、座っています。
 母親の洋子さんは、看護師として某病院で勤め上げ、数カ月前に定年退職をしました。働いていたころに大病はありませんでしたが、退職した途端に、あちこちに不調が生じ、今日は股関節の手術目的で入院したのです。
 娘の麻紀さんも看護師です。今日は深夜勤務入りのため、勤務に備えて寝るために早く自宅に戻らなければと思うものの、洋子さんに聞いてみたいことがあり、椅子から立ち上がれないでいます。寝ている母親を起こしてまで訊ねることでもないようにも思い、自然に目を開けるのを待っています。

 30分ほど前、麻紀さんは母親の洋子さんに買い物を頼まれ、院内の売店に向かいました。洋子さんの財布を持ってです。
<いつぶりだろう、母さんの財布を持ってお使いって>
 麻紀さんは母親の長財布を手に、過去を振り返りました。
 麻紀さんが中学3年のときに、洋子さんが離婚し、母一人子一人の家庭となりました。そのころから母と娘は感情がぶつかることが多くなり、看護大学に入学と同時に麻紀さんは母親とはなれるために学生寮に入りました。それからはあまりぶつからなくなりましたが、仲のよい母娘とは言い難いぎくしゃくした関係となりました。麻紀さんは、就職と同時に寮を出て一人暮らしをはじめました。
 麻紀さんは、母親の財布を持ってお使いをしたのがいつだったかを思い出すことはできませんでしたが、それでも、母親の財布を持って買い物を行くことを少しうれしく思いました。
 売店で、うっかり洋子さんの財布を落としてしまった麻紀さんは、財布から飛び出したカード類を整理した際に、財布の中に「かたたたきけん」が入っているのを見つけました。紙もその上に書かれた文字も年代を感じる状態で、文字には上から何度もなぞったようなあとがありました。また文字は子どもの字でした。
 麻紀さんは首を傾げました。こういったものは子どもが親に渡すのが定番ですが、自分が洋子さんにこれを渡した記憶はまったくないのです。<ほかのことは思い出せなくても、肩たたき券のことならしっかり覚えているはず……>
実は、麻紀さん自身の財布の中にも「肩たたき券」が一枚、入っているのです。洋子さんが離婚した直後のころに、渡そうと思ったのですが渡しそびれて、その後、捨てるに捨てられなくなり、財布を変えるたびに新しい財布に入れ替えて、いまに至るのです。いまでも、いつか渡せたなら、という気持ちがないわけではありません。
<母さんの財布に入っていた券は、小さいときに私が渡したのだろうか。それがうれしくて、いまも持っているのかしら>
 洋子さんが目を覚ましたなら、麻紀さんが「財布にこんなのが入ってたよ!」と笑顔で声をかける。すると母親の洋子さんは「あら、見つかっちゃった。じゃ、いま、肩たたき券、使わせてもらおうかな、いい?」と笑顔でこたえる。「じゃ、やりましょうか、叩くだけじゃなくて、サービスで肩もみもしてあげましょう」と麻紀さんは返す。
 券をきっかけにそんなやりとりができるかもしれない、という期待が麻紀さんに生まれました。<でも、私たち二人がそんなふうになんかなれるわけがない。母さんと私は似過ぎているからぶつかってしまうという宿命なんだもの>という自らの心の声は無視して。

 洋子さんと麻紀さんは、昔からよく似ているといわれてきました。麻紀さんの父親、つまり洋子さんの元夫は、二人について外見のみならず性格も似ているとよく言っていました。「頑固で、生真面目で、不器用で」と。
 麻紀さんは、寝ている母親の手の甲を見ながら思います。
<こんなに、こんなにしわしわの、老けた手をしてたかな。そろそろ穏やかな親子関係になって、私なりに労わってあげたい>
 と、洋子さんのまぶたが開きます。
「あっ、麻紀……。そうだ、あなた、今日、深夜入りだって言ってたわね。早く帰って少しでも仮眠とらなきゃだめじゃない。さっ、早く、帰って」
 その、叱るような言い方に、麻紀さんはむっとしてしまいます。<どうして私は母親と同じ職業を選んだんだろう。看護師を選ばなければ、こんなふうに言われることはないのに>
「そんなこと、わかってるから。もう14年目だし。じゃ、帰る。さっき頼まれたの、買ってきたからね。それと……、それと……、肩たたき券、なんてさ、もう捨てたほうがいいんじゃない? なんで後生大事にとっておくのよ、あんなもの」
 36にもなって大人気ないと思いながらも、麻紀さんはぽんぽんと洋子さんに言ってしまいました。
「あっ、あれ、見たのね」
洋子さんは、恥ずかしそうに、そしてバツが悪そうに顔を崩し、そのあと小さくニコリとします。
 その様子を見て、麻紀さんは、さっき期待して想像した笑顔のやりとりのことを思い出し、肩にかけたバッグを椅子に下ろします。
 洋子さんが言います。
「たしかに、捨てたほうがいいんだけどね。財布を新しくするたびに捨てようかどうか迷うんだけど、どうしても、捨てられなくてね。とうとう、あなたのおばあちゃんに死なれてしまってからも、捨てられなくてね。もう渡したくても絶対に渡せないのにね」
 あの肩たたき券は、洋子さんが書いて彼女の母親に渡しそびれていたものだったのです。
 それがわかり、麻紀さんは、自分が書いたものを大事にしていたのだと思い込んでいたことが、なんだかくやしいような気持ちになってきて、腹立たしくなってきて、
「ばっかみたい。気持ち悪い。どんだけ不器用なのよ。じゃ、帰るから」
と、言い捨てて退出してしまいました。

 しかし麻紀さんは、自宅に向かいながら「私たち親子ってどんだけ似てるんだろ」と思うと、腹の底から可笑しくなってきて、仮眠のためにベッドに入っても笑いがこみあげてきたそうです。

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