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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第112回 ホスピタルアート 2013/10
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 「時刻は、7時30分を過ぎました…」
とラジオの声が響く赤い軽自動車を、看護師の近藤ひかりさん(28歳)が運転しています。日勤勤務につくために病院に向かっているところです。
 信号待ち後の発進の際に、いつもに比べてアクセルペダルを踏む力が控えめになっていることに気づき、気の重い出勤であることを自覚します。
 気が重い理由とは……。

いまから二カ月前、ある日の11時すぎのことでした。
平日の午前中の日課がばたばたと進む中、日勤でチームリーダーだった近藤さんは、ナースステーションで記録をしていました。そこへ、看護助手の女性Aさんが、あわてて入ってきて青白い顔で言ったのです。
「変なことになっています、501号室が……。きてください」
 記録の手を止めて近藤さんはAさんと個室の501号室に行ってみました。
Aさんは、壁にかけられた絵画をちらちら見ながら言いました。
「ベッドメイキングしたあと、この絵が少し傾いていたから、まっすぐに直したら、ぽろっと、へんな紙が落ちてきたのよ。もう、いや……」
 近藤さんが確認してみると、絵画と壁のあいだに、墨汁で梵字のような字が書かれたお札のようなものが挟んであり、絵画で隠れていた壁には、ペンキのようなもので「死」としたたるように書かれていました。
「一体、誰がこんなことをしたんでしょうかね、私、怖くて、ここで働きつづけていく自信ないわ。やっぱり、辞めたい」
 ベテラン看護助手のAさんは、数カ月前からことあるごとに「辞めたい」を口にするようになっていました。いま辞められたらそれを補う人員確保は難しい状況のため、看護師長をはじめとしてスタッフ一同で、引き止めていたところでした。
 Aさんは、この出来事を弾みにした形で翌日辞表を出し、その月末にさっさと退職していきました。
 501号室の絵画に隠されたお札らしきものと「死」の落書き事件、通称「のろわれ事件」の犯人は誰なのか、どういう目的で行われたのか、などなどはわからないまま、病棟では「話題にしない」方向となっていきました。外部に知れると、イメージ的によろしくないという上からのお達しがあったらしいのです。また、誰もが表立っては口にしないものの<犯人は退職したAさんかも>と指摘する人もいて事件を追求するのもばかばかしいという空気がありました。もともとAさんはなにかと問題を起こしがちで、彼女の退職をあからさまに喜ぶ人もいました。
 それでも、一人のベテラン看護助手を失ったことは病棟にとって業務の遂行上大きな痛手でした。Aさんの分を看護スタッフ全員でカバーすることとなり、業務の忙しさに拍車がかかった状況となり、次第にスタッフたちの不満はふくらんでいきました。
 そのうち近藤さんは<何人かのスタッフがなんとなく自分に冷たい>と感じるようになりました。最初は気のせいかと思った彼女でしたが、同期入職した同僚M美にこう言われました。
「みんな、大変じゃない。だから、そのうっぷんを誰かにぶつけたいわけよね。私、あまりあなたの肩もてないからね。みんなのうっぷんのエネルギーを大きくしちゃって、私にまで非難の目が向けられたら面倒くさいから。とにかく、時が過ぎるのを待つのよ、そのうち収まるだろうから。だから言ったじゃない。おとなしく、師長に言われた看護研究をやったほうがかしこい選択だってさ」
 「のろわれ事件」のお札が挟まれていた絵画は、近藤さんがホスピタルアートとして試験的に飾ったもので、忙しい状況の元凶は近藤さんなのだ、という見方が生じていることがわかりました。
 今年の春、近藤さんは、看護研究に取り組むようにと看護師長から声がかかりました。テーマも研究メンバーもだいたい決まっており、それを拒むことはできない雰囲気となっていました。しかし近藤さんは、どうしても今年は看護研究に取り組むのはさけたかったのです。彼女の病棟では、メンバーの自宅に集まって看護研究を進めることも少なくなく、それがとてもわずらわしかったのです。プライベートの時間も相当さかなければなりません。決まっていた研究テーマにも研究方法にもあまり魅力を感じませんでした。それで近藤さんは、今年は、以前から関心のあったホスピタルアートを個人的に取り組ませてほしい、看護研究は来年以降にやらせてほしい、と直訴し、なんとか了承を得られたのでした。そして、少し前からトライアルとして一枚だけ個室病室に絵を飾っていたのです。

 その後、先輩同僚たちが更衣室で、本人がいると知らずに次の会話をしているのを近藤さんは聞きました。
「やっぱりさ、自分だけ看護研究から逃れようとしちゃ、まずいよね」
「そう。それに、ホスピタルアートってさ、ちょっとかじったくらいでは、適した絵だって選べないと思うよ」
「ほんと、たとえ、ほのぼの系の絵だって、いらっとする場合だってあるしね」
「そうよ、プロが施した大胆な院内の壁画とかが話題になっているけれど、私はホテルの部屋にかかってるようなさりげないアートのほうが好き」
「いずれにしても、彼女のトライには完全に味噌がついた感じだね。やっぱりさ、おとなしく看護研究をやらないからいけないのよ」
 近藤さんは、看護研究を避けたこと、それも先送りにしただけなのに、そのことをこれほどまでに同僚たちが批判的だったということにショックでした。そこまでの批判を生むと予想できなかった自分の自信が一気に失われていく感覚となりました。そして、多くの同僚たちに嫌われたと感じるようになりました。近藤さんは日に日に滅入っていきました。

 近藤さんは「あっ」と声をだし、とっさにウィンカーを出して自動車を路肩に寄せます。
<どうしよう。えさを忘れちゃった。どうしよう>
 自宅で飼っている大きなカメに餌をあげなかったことに、近藤さんは気づいたのです。
 今年の3月の終わりに、苦手なカメの世話がはじまりました。近藤さんには不倫関係にある人と長らく交際していたのですが、その彼がいきなりカメを連れてきて、一日だけの約束で預かったのです。しかし、なんとその日に彼は事故にあって亡くなってしまいました。彼との関係は極秘にしていましたから、葬儀にはもちろん行くことはなく、何事もなかったかのように生活をつづけることになりました。カメは、いまだ好きにはなれないものの、亡くなった彼の忘れ形見ともいえ、カメの存在を誰にも打ち明けずにきました。こと、カメのこととなると思考がまったく進まず「どうしよう」と思いながら餌をやりつづけてきたのです。カメは浴槽においているため、カメがきて以来彼女は自宅で入浴していません。
 目にゴミでも入った痛みが走ったため、車のミラーをおろしてのぞきこむと、光があたり、顔の各部が仔細に見えて、ぎょっとします。
<え? あたし、いま、こんな顔しているの?>
実に疲れた肌、表情……を目の当たりにします。
<もう、もう、もう、やだ。もう限界。私、喪失の悲嘆の中にあるんだね>
 近藤さんは、彼の死以来はじめて泣きました。出勤の気が重いというよりも、彼女の日常全体がとても重く暗いものになっていることに彼女は気づきました。
そして、カメはペットショップにひきとってもらう相談をすることを決めたのです。

その後近藤さんは、カメをひきとってもらい、亡くなった彼との思い出のマンションを引き払って引っ越したところ、精神的にとてもすっきりしたそうで、すると、職場の同僚たちとの関係もよくなったとのことです。
 また、ホスピタルアートについても、なにかがあったのか師長が急に関心を示し、今後の看護研究テーマとして近藤さんが中心となって取り組んでほしいと言い出したとのことです。

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