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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第113回 天井 2013/11
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 A病院の深夜の病室。
 二人部屋の窓側のベッド上に横になっている樺沢さえ子さん(41歳)の顔が、スマートフォンの画面の光で照らされています。
 さえ子さんはA病院に勤務中の看護師です。肝臓を悪くし、所属先とは別の病棟に入院中です。軽快し、あさって退院の予定です。
 彼女はスマートフォンで、さきほど夫からメールで受信した写真を見ています。半年前に短期入院をし、二回目の今回は、なぜか病室の天井に関心が向きました。
そしてさえ子さんは、住宅建築専門用語でアネモとかアネモスタットと呼ばれている空調の吹き出し口のことや、PHSのアンテナが天井に設置されていることや、病室(特別室)の天井を木目調にしている病院があることなどを、インターネット検索をして知りました。と同時に、患者さんたちがこの天井を日々見つめている現実というものを、はじめて実感できた気がしました。
 彼女は今夜、改めて病室の無機質な雰囲気の天井を見つめていたら、自宅の寝室の慣れ親しんだ木目の天井が無性になつかしくなり、夫にメールして写真を撮って送ってもらったのでした。なんの変哲もない木目天井ですが、結婚と同時に入居して以来、10年間、折々に見つめてきました。満ち足りた気分のとき、疲れていて興奮が冷めずに眠れないとき、思い出し笑いをしながら、などなど天井を見つめたときのことを、さえ子さんは思い出します。天井の写真を見つめている彼女の横顔は、少し寂しげです。

 翌朝――。
 さえ子さんが、タクシーに乗り自宅に向かっています。ベッド調整の関係で一日早く退院してほしい、と入院している病棟の看護師長から頼まれ、担当医とも相談し、退院が一日早まったのです。
 あわただしく退院の準備をするさえ子さんに、看護師長は言いました。
「ごめんねえ、予定を狂わせちゃってー。今日は、樺沢君の勤務は?」
「昨日準夜で、今日は休みです」
「そう。それはよかった! 優秀なナースがついていれば安心だものねえ。ダーリンによろしくね」
「はい」
 さえ子さんの夫も看護師です。しかもA病院の職員です。二人は10年前に職場結婚をしました。子どもはいません。
 さえ子さんは、今日、夫に離婚を切り出そうと考えています。昨夜、送ってもらった天井の画像を見ながらよくよく考え、意思を固めたのでした。
 仲が悪いというわけではありません。どちらかに、別に想う人ができたというわけでもありません。男女というより姉と弟のような関係。まるでシェアハウスしている友達みたいな関係。それが嫌なわけでもありません。
<この人は、仲良し夫婦に見られるために私に対する不満を一生懸命押さえ込んでいるんだな>
 さえ子さんが夫に対してそう思うようになったのは、職場における二人の立場に変化があったころからです。
二年前、さえ子さんは看護部に異動となり、夫の大祐さんは病棟主任になりました。看護部は看護部門全体を管理する体制側ともいえ、一方主任は、A病院では体制側の逆の立場の班長のような立場にあります。
 さらにそのころ、夫の大祐さんは労働問題の検討チームに命じられたため、余計に体制側とは視点の違う役割を持ったのです。仕事についてよく話し合う二人でしたが、そのころから意見の対立がしばしば見られるようになりました。
 そんなある日、大祐さんはさえ子さんにこう言ったのです。
「プライベートではさ、仕事の話をするの、やめようか。立場が違うから、どうしたって対立しちゃうからね。そういうの、病院のみんなの前でも、対立している雰囲気が出ちゃうと困るからさ。俺たち、仲良し夫婦、なんだから」
 二人は、結婚するときによく話題にしたものでした。「離婚は絶対に絶対にやめよう」「自分たちは離婚するわけないけどね」と。A病院内で職場結婚したものの、のちに離婚したケースが何例かあり、格好の噂話のネタになっていたためです。
 そして、いまから一年ほど前、さえ子さんは大祐さんの友達から、こんなことを言われたのです。
「大祐さんは、ほんとうはいまでも子どもがほしいらしいよ」
<子どもはもう無理にほしいとは思わない、と話していたのに……。やっぱり、本音を押さえこんでいるのね>と彼女は思ったのでした。

 さえ子さんが自宅前でタクシーを降ります。小さな中古の一戸建てです。
 さえ子さんは、そっと玄関の鍵をあけて、音を立てないように居間に入ります。夫の大祐さんは、さえ子さんの退院は明日だと思っており、さらに準夜勤が二晩つづき、それも両日ともたいへん忙しかったらしく、疲れてぐっすりと寝入っていると思われ、起こさないよう気遣っているのです。
彼女は、二階の寝室へと向かいます。結婚当初から寝室は、お互いの交代勤務のことを配慮して別々の部屋にしています。
 寝室のドアをあけると、なんと、さえ子さんのベッドに大祐さんが寝ています。彼の手のそばにスマートフォンがあり、昨夜、さえ子さんに頼まれて天井の写真を撮って送信したまま眠ってしまったのだな、とさえ子さんは思いました。
仕方なくさえ子さんは、大祐さんのベッドで少し横になることにします。
ベッドに仰向けになった彼女は、はっとします。大祐さんの寝室の天井をはじめて見たのです。
 こんな木目だったのか――。
 この天井を見ながら10年間を過ごしてきた彼のことを私は何も知らないのではないか、と彼女は思います。
 さえ子さんは、ゆっくりと深呼吸をひとつすると、身体から少しずつ力が抜けてゆくような感覚になります。
大祐さんの寝具ベッドからは、当然ながら大祐さんのにおいがしました。
<私、このにおいが、まだ嫌いではないのね>
 さえ子さんは我にかえったような感覚になり、離婚という言葉が頭に浮かんだ経緯を素直に打ち明け、さえ子さんのベッドから見えた天井の感想を大祐さんから聞きたくなりました。

この夜、二人は久しぶりにいろんな話を和やかにし、大小いくつかの誤解があったこともわかったそうです。

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