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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第114回 ガッツポーズ 2013/12
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 朝。看護師の川又祐輔さん(25歳)が、病院のロッカールームでユニフォームに着替えています。少し急いでいるのは、遅刻しそうだからではなく、彼が担当するチームの深夜さんに早く確認したい件があるからです。その結果によっては、彼はガッツポーズをしようと考えています。
 このところ、川又さんが勤務しているA病棟では、朝の病棟全体の引継ぎの際にかならず入院患者の中村玉子さん(89歳)の夜間の状況が話題にのぼっています。
 中村さんは脳梗塞後のリハビリ目的でA病棟に入院。その二日目から夜間せん妄がはじまりました。
 彼女は軽度の左片マヒがあり、昼間はちょっとした動作でさえとても慎重です。そして蚊が鳴くような小声で話します。しかし、夜になると大声を出し、起き上がって右手で必死になにかを取ろうとするしぐさをしてベッドから落ちそうになったり、時には点滴を抜いてしまい血だらけになってしまったりなど危険な状態となってしまいます。
 中村さんが心落ち着きそうな自宅の身の回りのものをベッドサイドに置いたり、水分摂取の配慮をしたり、日中の活動性を高めるよう働きかけたり、薬物療法をしたりなどの対応をしてきましたが、夜間せん妄はおさまりませんでした。同室の患者さんへの配慮で個室病室に移動しましたが、それでも、せん妄による騒ぎは病室周辺に響き渡り不満の声が出ました。
 また、夜に可能な範囲で付き添うようになったご家族は、中村さんのせん妄状態を目のあたりにしてショックを受け「しっかりしろ!」「なにをやっているんだ」と本人を叱咤しました。それを受けて本人が余計に大声をあげるという事態がしばしば起こるようになってしまったのです。とにかく、一日でも早く夜間せん妄が出なくなるような対応が迫られていました。

 そんなある日の午前中。中村さんは、川又さんにシャンプーをしてもらいながら、ぽつりぽつりと昔話をはじめたのです。その際、ご主人が生前によく蚊帳を吊ってくれたという話が出て、それをヒントに川又さんはプライマリーナースとして判断し、翌日、ご家族にその蚊帳を届けていただきました。そして、さっそく準夜勤の際に川又さんは中村さんに提案したのです。
「これ、中村さんがお使いになっていた蚊帳ですよね。いまは冬ですし、ここに蚊がいるわけでもないのですが、これを吊ると気持ちが落ち着くかもしれませんから、良かったら吊ってみませんか?」
 その蚊帳は深い緑色の麻製の昔ながらのもので、柱のように角になる部分にはあざやかな緋色の布があしらわれていました。
 それを懐かしそうに見つめながら中村さんは言いました。
「試して、みましょうか」
 夜間せん妄の出現については、家族にその様子を聞かされて、中村さん自身も相当傷ついており、どうにかして直したいと願っていました。
 初めて吊る蚊帳と格闘しながら、川又さんは蚊帳を吊りました。病室の雰囲気ががらりと変わりました。
 するとどうでしよう。中村さんは、蚊帳が吊り終えるころには眠りにつき、その夜はせん妄の症状が出なかったのです。
 ところが――。翌日は、準夜のナースがその蚊帳を吊ったものの、せん妄症状が出てしまいました。男性の看護師が吊ることが、亡きご主人を連想してよいのかもしれないという話となり、期待をこめてその翌日に男性の準夜ナースが蚊帳を吊ったのですが、それもダメでした。
 そして、その次の日に再び準夜勤についた川又さんが蚊帳を吊ってみたところ、症状が出ませんでした。結局、川又さんが行わなければダメなのだということになりました。
 とはいえ、シフトの関係で常に川又さんが行うことはできません。では、どうしたらいいか。担当スタッフとご家族と合同のカンファレンスを開きましたが、良いアイデアは出ず、みなで頭を抱えることになりました。
 川又さんはみなに提案したいことが一つありましたが、それをすぐに口にはできませんでした。彼は、看護職においては少数派の男性として、みなとの調和を強く意識して勤務を続けてきました。その結果、自分から先に意見を述べることは避けるようになり、意見を求められたときに述べる習慣が身についていたのです。
 しかし彼は、中村さんのプライマリーナースとして意見を自分から述べなければと考え、朝のチームカンファレンスで発言したのです。
「転院や短期外泊を検討する前に、せん妄が出なかった条件について、もう少し丁寧に検討して対応することが、ケアへの信頼につながり、症状の改善にもつながると思うんです。具体的には、次回のカンファレンスには、中村さん本人にも参加していただく形がいいと思います。彼女は、誰よりもせん妄が出なくなってほしいと考えているし、言葉は少ないけれど、きちんと考えて判断できる方です」
 実は、中村さんのご家族は、中村さん本人に意見を聞くことをせずにいろいろ決定する傾向にあり、主治医やスタッフも、中村さんがあまり言葉を発さないために、ご家族に説明や確認をすることが多くなっていました。
 川又さんの意見に、主治医やナースたちは賛成しませんでした。しかし川又さんは、熱心にそして冷静に彼らを説得し、実現したのです。
 その結果、カンファレンスにおいて中村さんは、緊張したのか口を閉ざしていましたが、意を決したように、貴重な一言を口にしたのでした。「におい、かも」と。
 中村さんのご主人は、生前いつも同じヘアトニックをつけていたそうで、それと同じにおいをかすかに川又さんから感じたからかもしれない、と彼女は語ったのでした。
 看護職はヘアトニックや香水は使用を控えていますが、その香りはある男性患者のシャンプー後にその患者に使用したヘアトニックをこぼし、ユニフォームにしみついていたものだと判明しました。
 そして、さっそく、蚊帳を吊る際に、中村さんのご家族が準備したその銘柄のヘアトニックを香らせてみることを、川又さんが中村さんに提案してみたのです。
「じゃ、それでお願いします」
 というわけで、昨夜、それが実行されたのでした。
 一夜明けたいま、川又さんはその結果がどうだったか、いち早く知りたいのです。

 スタッフステーションに到着した川又さんの姿を目にした深夜さんは、ピースサインをしたのでした。蚊帳+ヘアトニックが効を奏したのです。
 川又さんは中村さんの病室をたずねます。
「昨夜はゆっくりお休みになれたようで、よかったですね」
「そのようですね。みなさん、私のために、いろいろ、ありがとう」
 川又さんは、中村さんの病室をあとにし廊下でガッツポーズをしました。

 その後A病棟では、川又さんがガッツポーズをしていたことがスタッフ間で話題となり、しばらくのあいだ彼はガッツポーズ川又と呼ばれることになってしまったそうです。

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