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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第116回 トミーとマツ 2014/2
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 夜の9時過ぎ。
 バーカウンターで、二人の女性、富山さん(28歳)と松島さん(28歳)が、ナッツやチーズをつまみにワインを飲んでいます。ほかにお客はいません。蝶ネクタイをしめた苦労人ふうのマスターが、カウンターの中で作業をしています。
 二人は、某病院のA3病棟に勤務しているナースです。富山さんは、すらりと背が高く色白の和風美人で、慎重派。一方、松島さんは小柄で健康的な肌をしたガッツみなぎる女性で、直情型。この対照的な二人は、ときに衝突、ときに協力しながら仲良く働いてきた名コンビです。辞めようとした何人かのナースを思い留まらせた実績もあります。
 数年前に看護師長が目を細めて「知らないだろうけど、あなたたちって、昭和の刑事ドラマ<トミーとマツ>みたいなコンビね。そういえば、名前もトミーとマツだわね!」と言ったことがきっかけとなり、二人はA3病棟で「トミーとマツ」と呼ばれるようになりました。ちなみに『噂の刑事トミーとマツ』とは1979年から3年間週イチで放送され、40代後半以上の年代の人たちの記憶にあるドラマです。
 赤ワインの一口を飲み下したトミーがぼそぼそと言います。
「いまの時代、バーに呼び出すなんて、ちょっと強引というか乱暴というか。安田さんは来ない気がするし、呼び出したことが逆効果になってしまったりして。<おせっかいな先輩にバーに呼び出しを食らって、余計勤務にいけなくなりました>なんて言いだしたりしてさ」
 するとマツが、赤ワインをあおったあとに言葉を返します。
「出たよ、お決まりのネガティブ発言。安田さんは、いままで早期離職した人たちとは違って<向いてません><辞めます>って言葉は現時点で一言も言ってないんだよ。だから、話をすれば案外、事態が好転するかもしれないよねって、トミーも頷いてたじゃない」
「まあ、夕方にはそう思ったんだけどさ……」
「とにかく、待ってみようよ。昔、私たちが新人のとき、新藤先輩たちが、今日みたいに呼び出しておいしいお酒やごはんをご馳走してくれて、話を聞いてくれたじゃない。そういうことを、後輩に返していくのは大事だよ。安田さんってさ、単に不思議ちゃんというだけではない気がするんだよね」
 話題の安田さんとは、昨年の春にA3病棟に入職した新人ナースです。新人なりに坦々と仕事に取り組んでいる印象だった彼女が、ここにきて「どうしても出勤できない」と連絡をよこし欠勤が続いているのです。
 トミーが言います。
「理由を聞いて、スタッフ一同仰天して、<ありえない!>とか<信じられない!>って言って、あきれはてたじゃない。たしかに私も<そんなことで?>って思ったけど、改めて考えてみると、人間の感情としては自然かもという気もする」
「そうなの。まずは、出勤できないって堂々と言えてしまうことに驚いてしまったけど、彼女が理由としたことって、わりと誰もが同様に感じることが知れないんだよね。病棟全体に問題提起するために、今回の行動をとっているのではないかな、とかいろいろ深読みしてしまうよ。だから来てもらって、話を聞いてみたほうがいいんだよ」

 安田さんが出勤できない理由として師長や主任に述べたのは、次の二点でした。
 一つ目。ベッドサイドをあとにしようとしたところ、患者さんに咄嗟に手首をつかまれて、ぎょっとして反射的にその手を振り払ってしまったこと。今後も患者さんに手首をつかまれることがあるかもしれない。自分は看護職なのに、また反射的に振り払ってしまうのがこわい。
 二つ目。出勤前のモチベーションアップのために必ず聴いていた楽曲の作者であるミュージシャンが急逝してしまい、とても大きな喪失感が生じた。
「こんなにもつまずいてしまっている自分が我ながら不思議なのですが、どうにも出勤する気持ちになれないのです。どうしたらいいでしょう」と安田さんは電話で言ったといいます。
 師長は「とにかく、明日は休みなさい」と答え、一週間安田さんが休んだ場合を想定して、あわてて勤務シフトを組みなおしたのです。ほかのスタッフに手を合わせて謝りながら。
 その翌日も、安田さんは師長に「勤務に行けない」と電話で告げたのでした。
 師長は、ここ数年の経験上<1年目や2年目のナースが「辞める」と言いだした場合、どんなに面談して引き止めても結局は辞めていくのだ>という感触を得ていました。もちろん離職者は出したくない。しかし、どうせ辞める人にエネルギーを使うなら、辞めないで頑張っている人たちのさまざまな問題解決にエネルギーを費やしたいというのが本音でした。それで安田さんの件について、師長にはどことなくあきらめムードがありました。A3病棟のスタッフ全体にも同じムードが漂っていました。
 トミーが言います。
「でも、もうちょっと騒いでやらないと、なんか寂しいよね」
「いいこと言うね。そうなのよ。並べ立てた理由でなく、ほかに出勤できないメインの理由があるのではないか、とか。なにを甘いこと言っているんだって、がつんと𠮟ってやるとかさ。みんな、業務が大変でぴりぴりしているのはわかるけど、同僚が辞めるって言いだしたら、それなりの波風が立たないと、職場という感じがしないというか」
「それに彼女はまだ、辞めるって言ってないわけだしね。精神科受診をうながしたほうがいい、という声もあるけど、師長は管理上あまりその方向にはしたくないみたい。とにかく、もうちょっと待とうか。彼女からメール入ってないでしょ」
「うん、入ってない」
 ここに来られない場合には、それをメールか電話で知らせるように安田さんに伝えてあるのです。
 待つ身になると、お酒はついつい進んでしまうものです。二人もワインが進みます。
 そして、10時、11時、と時が過ぎ、安田さんは現れません。
 すでに二人はかなり酔っており、もし、安田さんがやってきたとしても、まともな会話はできそうにありません。二人とも、トイレに立つ歩みもおぼつかない様子です。
 そしてまた時間が過ぎていきます。時計は0時をまわります。
 マツがカウンターに顔を乗せたまま、いいます。
「そろそろ、終電がなくなるからね、もう、安田はこないかもしれないけどさあ、それでも待ち続けたって事実が大事な気がするんだよなあ」
 トミーが水をごくごく飲み、「あう」と息をつくと言います。
「そうだね。彼女がくる確率は、もうゼロパーセントといっていいよ。でも、意地でもまだ待つわよ。あたしたちが同時に翌日休みって夜は相当貴重で、その貴重な夜を安田さんのために使ったんだから、とことんまで貫きます」
 二人は、自分の前腕を枕にしてカウンターに顔を伏せてしまいます。
 そこへ、お店の電話が鳴ります。マスターがそれを受けて小声でなにかを話し、受話器を置きます。
 それから30分ほどたちました。バーのドアが開きます。若い女性です。彼女はマスターと目をあわせ、小さく会釈をします。マスターは口元を少し緩めて、酔いつぶれている二人に視線を向けます。女性は二人に近づきます。
「あの、安田ですけど。あの」
 すると、マツが飛び跳ねるように顔をあげます。「あっ、安田さんだ」
次にトミーも顔をあげます。「あれ、安田さん、どうしたの?」
 三人はまもなく、それぞれにタクシーで帰宅したのでした。

 その一週間後。
 安田さんは、いつもの勤務に復帰しています。
 たまたま、安田さんと売店で出くわしたトミーとマツが、彼女に問います。
「どうしてこないだ、あんな遅くになってからバーに来たの? それと、出勤できないって言ってた件は、どんなふうに解消されたの? 実に謎なんだけど」
「あの夜、なんとなくお二人には直接電話しづらくて、どんな様子か、バーのほうに電話したら、あのマスターに、いま来なければ一生損するって言われて……。たしかに、どうして、単に配属が同じだけの関係なのに、こんなに酔いつぶれるまで飲んでそして私を待つのか、すごく不思議で……」
「それで?」とマツ。
「あとはノーコメントで」
「はあ?」「なにそれ」とトミーとマツ。

 ともかくは、辞めなかったことをよしとしよう、とトミーとマツは肩をたたき合ったそうです。

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