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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第117回 古くて新しいクスリ 2014/3
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 患者さんが言葉を発する。
 まぎれもなくその患者さんが話しているのに、声色やリズム、そして言葉づかいさえいつもとは違うような気がして、まるでその人ではない別の誰かが話しているような印象を受ける一瞬があるものです。発声にかかわる条件の変化によるものだとわかっていても、急に白黒の画面がカラーに変わったような、またその逆のような、つまりはっとする場面です。

 夜。
 看護師の宮田真樹さん(29歳)は、担当の患者さんたちすべての病室の消灯を終えた足で、寺島洋介さん(69歳)の個室病室に入っていきます。
 寺島さんはターミナル期にある患者さんです。苦痛が緩和されたためか、さきほど消灯で訪室した宮田さんに彼は「誰かと話したくなって」と雑談を申込んだのでした。
 宮田さんが入室すると、ベッド上に横たわる寺島さんはベッドライトに静かに照らされており、その彼の顔がゆっくりと笑顔になります。
「5分くらいおつきあいいただけるかな。忙しいところ、悪いね」
「いえいえ、お声かけてくださりうれしいです」
 笑顔になってベッドサイドの椅子にこしかける宮田さんに、寺島さんはいいます。
「ここのところ姿が見えなかったけど何日か休みだった? で、もしかして潜ってきた?」
「わかります?」
「そりゃ、わかるさ。むふふ」
 宮田さんは7日間の休暇をとり、趣味のスキューバダイビングを満喫して、昨日から勤務に戻りました。寺島さんは、スキューバダイビングのインストラクターをしていたことがあります。宮田さんが寺島さんのアナムネをとったときに、趣味が同じだとわかり、2人はときどきスキューバダイビングの話をするのです。寺島さんは、スキューバダイビングの話をするときには、決まって目が輝きます。
 彼が言います。
「海、どうだった? 浮遊感はちゃんと味わった? 水中に降り注ぐ光はどんなだった?」
「あっ、はい。もちろん、堪能しました……」
 いつもなら、看護師という立場を忘れそうになるくらい、スキューバダイビングについては言葉があふれ出てくるのですが、口ごもってしまいます。そんな宮田さんの顔を覗き込むようにし、寺島さんはいいます。
「どうした? なんか浮かない表情だな。実にあなたらしくない」
「いえ、なにも。ほんとうに、万年初心者気分の私は、何度行っても、やはり、海に注がれる光に感動して、浮遊感に癒されるんですよ。今回もいいリフレッシュになりました」
「いや、ごまかさないでよ。さっき、顔が曇ったのを見逃さなかったよ。ほんとうのこと話してよ。私にはもうあまり時間がなくて、いまのこの時間も貴重な雑談なわけで、看護師だから言えないとか、そんなことは考えないであなたが話してくれることがとても有意義なんだから」
 寺島さんは、真剣なまなざしでそういいます。
 それを受けて宮田さんは、笑みを浮かべながら小さく頷きます。
「実は……。先日、バリ島沖で起きたスキューバダイビングの事故が大きく報道されましたよね。バリではなかったんですが、ちょうど同じ時期にダイビングに出かけていた私に対し、みんなからの心配メールや電話がすごくて、なかには心配だから金輪際スキューバダイビングなんて辞めてほしいという人もいまして……。心配してくれることはとてもありがたいのですが……。歩いていたって、飛行機に乗ったって、なにをしたって危険はともなっているわけですし、しっかり気をつけて、自分の責任で楽しんでいるわけですし……。とにかく、みんなからの心配の嵐に少し疲れてしまいまして」
「みなの心配に、げんなりしてしまったというわけだ」
「寺島さんならわかっていただける気がするのですが、大げさではなく、スキューバダイビングでリフレッシュできるから仕事に打ち込めるわけで……」
 宮田さんは昨日も準夜勤でした。その後帰宅した深夜に、彼女は泊りにきていた彼氏と大喧嘩をしてしまいました。彼が、心配だからスキューバダイビングをできれば辞めてほしいと口にしたのがきっかけでした。
 彼は宮田さんにこう言いました。
「ナースという職業柄、人の心配をするのには慣れていて、そのかわり自分が心配されるのは苦手なタイプなんだって、さっき言ってたけどさ、ほんとうは、真樹はものすごく心配されたい人なんだよ。もしかして、心配されたくて仕方なくて、その感情が爆発してしまわないように、抑え込む癖がついたんじゃないかな。そういうふうに感情を抑え込んでばかりいると、ほかの感情も同時に抑え込んでしまって、ここぞというときに、うれしいとか、悲しいとかもうまく出せなくなってしまうかもしれないぞ。素直に人の心配も受け止めたほうがいいよ」
 二人は酔っていたことも関係して、普段は口にしない不満までぶつけあい、結局、明け方には別れ話にまで発展してしまったのでした。
 彼と喧嘩した話は、さすがに寺島さんには話せませんでしたが、ほんとうはそれが彼女の顔を曇らせたいちばんの原因です。自分から謝るつもりはない、このまま別れてしまうのかも。宮田さんはそう思っています。
「そうか、そうですか……」
 疲れたのか、寺島さんは目を閉じてそう言いました。
 そして、あの瞬間がやってきたのです。
 寺島さんは目をあけると、かたわらの吸い飲みを口に運びゴクリと水を飲みくだして言ったのです。
「あなたね」
 その声は、いままでの寺島さんの声から何段も低いトーンです。
「あなたね、心配というものは、第三のクスリなんです。わずらわしく、面倒くさいときもある。しかし、心身によく効くんです。特に大切な人からの心配は妙薬です。昔からみんな心配というクスリを処方しあって生きてきたんです。その場その場で新しい心配をしあいながらです。それを忘れないでください。グッナイ」
 声だけでなく、言い回しも寺島さんではないみたいで、宮田さんはあっけにとられてしまいます。
 寺島さんは再び目をとじ、すーすーと寝息をたてはじめます。それを確認して、宮田さんは退出しました。
 そうか、人に心配してもらうことってクスリなのか。

 宮田さんは、なぜかとても素直にそう思うことができ、みんなからの心配の嵐にイラついていたことが噓にように吹き飛んでしまい、彼に対しても意地をはらずに仲直りのメールをしようと決めたそうです。

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