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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第118回 ロボット 2014/4
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 夕方。
 訪問看護ステーションHOPE(以下、HOPE)のオフィスで、早めに訪問から戻った看護師の花田さん(38歳)がパソコンに向かい、記録をしています。
 そこへ勢いよくドアが開き、看護師の杉浦郁恵さん(25歳)が入ってきます。荷物をデスク上に置きながら明るい声で挨拶します。
「ただいま戻りました! 思いのほか早めに戻れました」
 花田さんは杉浦さんのほうに顔を向け、ニコリとして「お疲れ様」と応えます。

 杉浦さんは、某病院のICUに3年間勤務したあとHOPEに就職し、もうすぐ丸1年です。同じ看護とはいえ、業務形態や内容が大幅に違い、予想以上の戸惑いが生じたこの1年でした。
 HOPEでは、24時間対応に移行するための準備として、若い看護師を積極的に採用する方針を打ち出し、その第一号として杉浦さんは採用されました。それまでのスタッフは全員子育て中などで夜間の業務は困難な状況です。

 デスクに座った杉浦さんは、花田さんに声をかけます。
「あの、記録中にごめんなさい。ちょっとご報告させていただいてもいいですか?」
「あっ、いいですよ。いいことがあったみたいね」
 冷静な表情で花田さんは返します。
 花田さんは、看護学生時代から訪問看護への道を希望していましたが、臨床での十分な経験が必要だとの助言にしたがい、産休に入る33歳まで病院勤務をつづけ、産後1年目の35歳のときにHOPEに就職し、念願の訪問看護師になりました。杉浦さんがHOPEに入って以来、戸惑いの連続であることについて、彼女は内心<やはり、訪問看護は十分な臨床経験が前提になるのではないかしら>と思っていました。

 杉浦さんはこのところ、新たに担当するようになった五十嵐重蔵さん(89歳)の受け入れが悪いことに困惑していました。いや、受け入れが悪いというより彼女が嫌われてしまったという言い方があっています。バイタルサインや飲食料のチェックなどの最中は憮然とした表情で、彼女が話しかけても返事はせずににらみつけ、「ロボットは帰れ!」と声を荒げるのです。
 嫌われた原因はまったくわかりませんでした。容態については大人しい彼の妻が、本人に代わって答えてくれます。見送りに出たときに妻は「癇癪持ちで申し訳ないです」と繰り返すのでした。
 杉浦さんは、なんといってもロボットと言われることがショックでした。ロボットとは人間ではないということ。彼女が目指す温かな血の通った看護師像とは真反対のイメージです。相談したHOPEの所長からは「貴重な経験だから、五十嵐さんから変えてほしいと希望がないなら、もう少し続けてみなさい」というコメントがあり、杉浦さんが変わらずに担当を続けることになりました。
 そして今日、一日の最後の訪問先が五十嵐重蔵さんでした。杉浦さんは自分の頬を両手でぴしゃりとやって<めげずに、平静をこころがけて誠意を持って接しよう>と心中でつぶやき、訪問しました。
 するとどうでしょう。杉浦さんが入室した姿を認めると今日の五十嵐さんは、表情はむすっとしているものの「どうも」の代わりといったふうに右手をあげて挨拶をしたのです。そして、杉浦さんが帰るまで一度も「ロボットは帰れ」を言わなかったのでした。
 杉浦さんは弾んだ口調で、そのことに続き五十嵐さんの変化の理由だと思われる点を花田さんに報告します。
「帰りに、玄関まで見送ってくださった奥様が話してくれたのですが、前回の訪問のときに私、五十嵐さんに『ロボットは帰れ』って言われながらティッシュの箱を足元に投げられてとても動揺して、奥様がお盆に出してくれていたお饅頭を、いつもは口にしないのですが、思わずぱくついてしまったんです、お茶も一息で飲んでしまったんですね、そして……」
<主人は、お出したお茶や菓子を杉浦さんが召し上がらないことを、残念に思っていたのかもしれません。仕事中だから召し上がらないのでしょう、と私は言っていたのですが>と妻は杉浦さんに説明したそうです。
 杉浦さんが話し終わると、少し間をおいて、花田さんが口を開きます。
「それはよかったわね。でも、五十嵐さんがあなたに辛く当たらなくなった理由はそれだけではないかもね。五十嵐さんご夫妻は、費用のことをとても心配していて担当のケアマネさんに内密に相談していたみたいなんだけど、ちょうど昨日、なんとかご希望の範囲内で費用が収められそうであることをケアマネさんが伝えたらしいの」
「そ、そうなんですか」
 五十嵐さんの費用への心配がなくなったことをよかったと思うと同時に、そのことを五十嵐さんの医療・ケアチームのメンバーである自分には知らされず、花田さんがそれを知っていることを杉浦さんは残念に思いました。
 花田さんがつづけます。
「あっ、いまのは、あなたの非難ではないですからね。そうだ、ついでに伝えておきましょうか。実はね、五十嵐さんが杉浦さんを受け入れない感触であることは、ほかのチームメンバーにも伝わっていたのだけれど、所長がメンバー一人一人にもう少し様子を見てほしいって頼んでいたみたいよ。期待の若手ですからね、所長をはじめHOPE全体であなたを大切に思っているんですよ」
「ありがとうございます」
 HOPEのスタッフの中で唯一の二十代である杉浦さんは、自分の未熟さを実感します。

 と、そこへドアが開き、所長が入ってきます。
「お疲れ様! 杉浦さん、今日、五十嵐さん機嫌よかったんだって? いま、そこで五十嵐さんの娘さんという方が、差し入れですって、これをくださったわよ。五十嵐さんが差し入れしてやってくれっておっしゃったみたいよ。もしかして五十嵐さんは、最初から杉浦さんがかわいくて、いじめてたのかもね、わからないけど」
 所長は、手に持っていた包みを広げます。饅頭です。
 花田さんが複雑な表情になっていいます。
「私、まだまだ未熟です」
 すると、所長。
「あら、花田さん、どうしたの? とにかくは、せっかくのお饅頭だから、いただきましょう!」
 ほかのスタッフの分をしっかり取り分けて、三人は笑顔でお饅頭をほおばったそうです。

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