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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第120回 若葉雨 2014/6
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 午後3時すぎの某病室。
 ここは男性患者の4人部屋です。ひとりずつのベッドまわりのカーテンが閉められプライバシーが確保されています。
 窓側のベッドに横たわる西島幸男さん(79歳)が、窓の外の雨空を見つめながら、心の中でつぶやきます。

 今朝、朝食を運んできてくれた女性からは、ほのかに雨のにおいがした。病気をしてこうして入院をしなければ、雨のにおいに感じ入ることなんてなかったかもしれないな。
 今日の雨は、若葉雨ではないだろうか。若葉や青葉を丁寧に洗うように、しずかに落ちる雨。翠雨、緑雨、青雨とも呼ばれる雨。ここからは空以外は見えないが、今日の雨は辺りの草木の緑を輝かせているに違いない。あちこちの緑、緑、緑……。うん、想像で緑をめでるのも悪くないな。
 今日は穏やかな時間が流れている。私が薬で苦痛が緩和されたからかもしれないが、いまのこの落ち着いた空気、実にいい。
 この雰囲気は、さきほど病室に入ってきた新藤さんというナースが、私の向かい側の患者のところでケアをしている気配があるのも確実に関係しているだろう。新藤さんは新人らしくて初々しく、慌てずにことに当たろうとしているものの、緊張でいっぱいらしいのがはしばしから伝わってくる娘さんだ。
 そんな新藤さんも、今日はどこか堂々とした足音で入室し、私の向かい側の患者に、落ち着いた声色で話しかけている。彼女の言葉に耳をすますと、清拭したり軟膏を塗ったりしているようだ。
 私は、入院してにおいのほかに音にも敏感になった。だから、向かい側のベッドの患者の身体が動いたちょっとした音や新藤さんが足の位置をかえたのでないかという音、コトリとオーバーテーブルに何かが置かれた音などが耳に感じられる。心地のいい音だ。

 そこへ、売店に出かけていた患者の香取さん(19歳)が、同年代の男性とともに病室に入ってきて、廊下側の彼のベッドに戻ります。普段は無口な香取さんですが、いつになく弾んだ声で同行者に言葉を発します。
「ここの新人ナース、俺、ルーキーSってひそかに渾名つけたんだけど、その人さ、頭の回転が早い感じで、将来は、ばりばりのナースになるんだろうなって感じなんだけど、歩くときにきゅっきゅっと鳴る靴音を聞いてると、いまは、いっぱいいっぱいで懸命の毎日なんだろうなあ、ってわかるんだ。その、きゅ、きゅ、にさ、彼女のひた向きさがあらわれている感じがしてさ、ちょっとした感動があるんだよ。くっ、俺、なんで急に感情吐露なんかしてんだろう、気まずいっしょ」
「いやいや、やっぱ、入院体験ってさ、人に感情吐露させるっしょ。どんどん、吐露してくださいよ」
 会話の感じから、どうやら面会者は仲のいい友達のようです。そして、香取さんもその友達も、となりのベッドで新藤さんがケアをしていることに気づいていないようです。
 西島さんが心の中でまたつぶやきます。

 この病室にやってくる新人ナースといえば新藤さんだけだし、なんといってもルーキーSだもの。新藤さんのことだな。
 それにしても青年、案外繊細に観察しているじゃないか。そう、新藤さんの足音は独特で、なんか小動物の鳴き声みたいで、まったく不快じゃない音なんだ。青年の言うとおり、懸命さみたいなものがその音にあらわれていて、胸を打たれるんだ。私の主治医の40がらみの男は、靴のうしろをつぶしてスリッパみたいにパタパタと音をさせて歩くのだが、ふてぶてしい印象の気持ちのよくない音だ。その音と新藤さんの足音とは、雲泥の差。
 ところで、新藤さんには、いま、青年たちの会話は聞こえているのだろうか。小さい声とはいえ、耳を澄ませば聞こえる会話だ。接している患者のケアに集中しているため聞こえていないだろうか。

 香取さんとその友達の会話は続きます。
「家族にあれこれ言われるとうざったく感じることもさ、ルーキーSに言われるとものすごく素直に頭に入ってくるんだよな。他人だし、看護のプロというふうに俺が見ているからだろうけど、それだけではない気がするんだよ。たぶん、ルーキーS本人は自分にそういう力が発生している自覚はまったくないと思うんだけどさ」
「だから余計にいいんじゃないの?」
「かもね。こっちのほうが年下なんだけど、俺、心の中で<がんばれよ、これ以上はがんばらないでがんばれよ>みたいな感じで、彼女を励ましてんのよ。病気のお前こそがんばれよって、どっかから突っ込みが入りそうだけど」
「とにかく、ルーキーSさんは、うれしくありがたい、貴重な存在ってわけだね」
「だね」

 西島さんが、また心中でつぶやきます。
 よし、青年、いいぞ。この調子で、新藤さんの賛美を続けてくれ。
 この際、新藤さんに聞こえていてもいなくてもいいように思えてきた。雨が自分の輝きを増してくれたことを若葉が自覚しないように、青年の言葉が新藤さんの全身にやさしく降るように響けばいい。
 どうか、青年たちも、新藤さんが病室内にいることを知らないように……。知ってしまったらいまの話はとぎれてしまうだろうから。
 ん? 待てよ。青年の話を止めてしまう大きな不安要素があるぞ。この病室のもう一人の90歳を過ぎたらしい患者だ。彼は、たとえ室内にナースがいることがあきらかでも、ナースコールを押したりするのだ。いまは、青年も気づかないほど新藤さんはしずかにケアしているから、余計にわからなくてナースコールを押すかもしれない。彼がナースコールを押すのは、どうやら、ベッドそばに置いてある尿瓶に尿がたまったときらしいのだ。たぶん、ここ1時間くらいはナースコールを押していないから、そろそろそのタイミングかもしれない。ナースコールが押された場合、そのことが新藤さんにもわかるようになっており、「いま、となりのベッドにおりますから、少しお待ちください」というふうに声をあげることになり、それで自動的に青年は新藤さんがいたことを知り、話はとぎれてしまう。
 実は4日ほど前に、私は見てしまったのだ。私のところに検温にやってきた新藤さんが、ベッドサイドに落ちていたゴミをしゃがんで拾ってくれたそのときだった。ショートカットの彼女の右耳の上の部分に、紙吹雪の一片のような白いものがついているなと思ったら、それは円形脱毛だったのだ――。彼女はその後、その部分が隠れるように右耳の上の髪の部分をピンでとめている。

 西島さんの願いどおり、同室患者がナースコールを押すことはなく、青年はあの調子で新藤さんを褒め続けたそうです。また、新藤さんがケアを終えて病室を出ていく前に、青年とその友達はふたたび病室を出ていったそうです。そして西島さんは、穏やかな表情で若葉雨をながめつづけたのだとか。

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