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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第124回 休み希望 2014/10
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 土曜日の遅い午後。
 某スポーツクラブの50メートルプール。高齢者などで混んでいます。
 水中歩行専用のコース内で、人々が数珠つなぎになって歩いています。そこをのんびりと歩いていた看護師の田島祐樹さん(24歳)ですが、さきほどからなんとなくびくびくしているような雰囲気を漂わせています。水中歩行ですれ違った女性が、同僚の看護師・柴田えりかさん(28歳)であることに気づいたからです。
 田島祐樹さんは今日、郷里の友達の結婚式の披露宴に出席する予定でした。そのためにだいぶ前から休み希望を出して休暇をもらったのでした。
 しかし一週間ほど前、披露宴を開くその友達から、招待状の印刷ミスで、通知を一日間違えていたと連絡があったのです。友達からは、休日を変更してもらって披露宴に来てほしいと言われましたが、田島さんは「それはできない」と断りました。田島さんの病棟では、病気入院のための欠員が2名出ており、臨時採用をしたりしてなんとかシフトを組んでいる状況で、今日の休みも看護師長が苦労して調整してくれたのです。それを変えてほしいなどと言えるわけがありませんでした。
 というわけで、今日は、披露宴に行かなくなったのですが、だからといって勤務が可能になったと今さら申し出るのは看護師長の頭を悩ませ迷惑をかけると思い、そのままにしたのです。それに、彼が属する病棟に男性看護師が配属されたのは田島さんがはじめてで、なにかといえば目立ちがちのため、極力、自身が目立たないようにと彼は日頃心がけており、そういう点からも、今日の休日について同僚に説明するようなこともしませんでした。
 そして田島さんは、休日にときどき来ているこのプールにやってきたのでした。勤務先の病院からは少し離れているためか、これまでこのプールで職場の人と遭遇したことはありませんでした。

 ところが、水中歩行をする同僚の柴田えりかさんとさきほどすれ違ったのです。彼女のほうは田島さんに気づかなかったようですが、今度すれ違ったら気づくかもしれません。
 田島さんは困惑しました。最近、結婚披露宴出席と噓をついて休み希望を何度も出している人がいるらしい、と同僚間で噂があるのです。結婚披露宴なら「休みは仕方ない」「親しい人の結婚は誰だって祝ってあげたいものね」というみなの善意から、長らく優先されてきた休み希望です。だからこそ、その空気を利用して噓をつくのは悪質だという声が出ていました。
 というわけで田島さんは、柴田えりかさんに、披露宴だと噓を言って休み希望を出している人だと誤解されるのではないか、と困惑しているのです。また、披露宴の招待状も見せて、きちんといきさつを説明すれば、噓ではないことをわかってもらえるでしょうが、その騒ぎで自分が目立ってしまうのもうれしくない事態です。いずれにしても、田島さんは柴田さんに気づかれたくありません。
<こんな些細なことで右往左往するなよ>という思いも出てきますが、田島さんはこの2年間で、些細なことが火種となり、派閥抗争に巻き込まれたり、濡れ衣を着せられたりしてきたのです。
 そうこうするうちに、柴田さんとすれ違うと予想されるタイミングが刻々と近づいていきます。

 柴田さんは、2ヵ月ほど前に他の病棟から異動してきました。まだ夜勤で一緒になったこともなく、業務上のほんの短い会話をしたことがなく距離のある関係です。つんとすました印象もあり、田島さんは彼女にとっつきにくさを感じていました。
 すれ違うそのときはもうすぐです。田島さんは、彼女に顔をそむけるようにして前に進みます。
 と、田島さんのすぐ前を歩いていた年配の女性が、足をすべらせたのか、急にぶくぶくと水に沈みます。彼は反射的に手を出します。すると、ちょうどそばにきた柴田さんも、その女性に気づき、咄嗟に両手を出します。

 プールサイドの救護室。
 さきほど足を滑らせた年配の女性が椅子にかけています。島田さんと柴田さんはその女性と監視員の男性に挨拶をして、救護室を出てきます。足をすべらせた女性は、捻挫などの心配はないようでしたが、念のため家族と病院受診をすることになりました。
 救護室を出るとき、田島さんは思いだしました。そういえば、今日は、柴田さんも結婚式の披露宴のために休みを取ったはずです。田島さんは思いきって、彼女に訊ねてみました。
「もう、披露宴は終わったんですか? それとも、これから?」
 そう聞きながら彼ははっとしました。もしかして、彼女は噓をついて休み希望を出していたのではないかと。しかし、異動してきたばかりの人なので、それはすぐに否定されます。すると、柴田さんがいいます。
「あっ、え? そういえば、田島さんも今日、披露宴だったんじゃなかったっけ?」

 夕方。居酒屋。
 田島さんと柴田さんがビールで乾杯しています。
 その後二人は、お互いの今日の休みのいきさつについて話し、そして意気投合して、飲みにきたのでした。実は柴田さんは、披露宴出席のための休みとして噓の希望を出していたのでした。柴田さんがいいます。
「異動してきたばかりで、いろいろ事情を説明して休み希望を出すのもあれだし、披露宴にするのが一番いいかなと思って。でも、今回がはじめてだよそんなことしたの」
 柴田さんは、大切な先輩と5年前の今日にプールに行く約束をしていていたのに、その日にその先輩が事故で亡くなってしまったため、命日には必ずお墓参りをしたあとにプールに入ることにしていることを田島さんに話しました。

 これが二年前の出来事です。

 その後二人は交際するようになり、なんと、もうすぐ結婚します。縁というものは、どこにひそんでいるかわからないものですね。二人はいまも同じ病棟に勤務しているのですが、二人の披露宴の日は、二人が休み希望を出さなくても、師長が早めに休みマークを入れてくれていたのだとか。

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