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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第125回 16歳 2014/11
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 平日の午後。A総合病院。
 レントゲン室の並ぶ地下の長い廊下は、1階の外来エリアの喧騒をよそに静まりかえっています。検査待ちの数名がまばらに長椅子に座っていますが、誰も声を発しません。
 その廊下を、呼吸器内科病棟に勤務中の看護師、桜田友紀さん(27歳)が、誰も乗せていない車いすを押しながら歩いています。担当の患者さんのお迎えにやってきたのです。検査室内に声をかけると、まだ検査が終わらないようで、桜田さんは廊下で少し待つことにしたようです。
 と、一番奥のレントゲン室から背の高い青年が出てきます。桜田さんはすぐに彼が誰だかわかります。
<あっ、磯田君だ。外出着だ、退院したのね。あっ、そうだ、知らんぷりしなきゃ>

 磯田君は、少し前に桜田さんの病棟に喘息で緊急入院した16歳の高校生です。
 桜田さんはある夜、入院中の彼と一つの約束をしたのでした。
 あの日、22時30分ごろ、準夜勤務だった桜田さんは、ナースコールを押した磯田君の病室に向かいました。彼の病室は二人部屋でしたが、彼と同室の患者は容態が悪化して数時間前に別室に移ったため、病室には磯田君ひとりとなっていました。
 15歳までは小児病棟に何度か入院していた磯田君ですが、現在はクラスメイトから「おじさま」という渾名で呼ばれるほど顔や身体つきがとても大人びており、<主治医はいままでどおりの小児科医で、入院は成人向け病棟で>という形が今回は選ばれたのでした。
 その決定の際、主治医は彼に確認したそうです。
「さすがに、廊下に折り紙が貼られていたり、ひらがなであふれている小児病棟は辛いだろう。大人の病棟がいいような」
「助かります。ありがたいっす!」
 A総合病院としても、16歳からは成人病棟で対応するのが原則となっています。
 呼吸器内科病棟に入院した磯田君は、容態が安定すると、とても大人びた受け答えをするのでスタッフからはこんな声が上がりました。
「絶対に高一には見えないよね。『看護師さんは不規則な生活で、体調を整えるのが大変でしょうね。どうか、大切になさってください』なんて言うのよ」
「大人っぽいのはルックスだけじゃないのよね、同室だった患者さんのところに来ていた面会の女性が、磯田君にリンゴを剝いてあげようかと声をかけたら、中年男性がノーサンキューの意を表すときのように手を挙げて、そしてそういうときの表情になって『ありがとうございます、好物なんですが、いまはお気持ちだけいただきます』なんていうの」
「あの落ち着き、<おじさま>という渾名、うなずけるよね」
 そんな磯田君が、遅い夜にナースコールを押してきたわけです。彼はたとえ眠れないでいてもナースコールを押してきたことはありません。また、体調が悪いのでもないようでした。
 桜田さんは、<もしかして>と思うことが一つありました。
 2時間ほど前の消灯のラウンドをした際に話したことです。
「ところで、小児病棟と成人病棟では、看護師の接し方に違いは感じますか? 友人が小児病棟に勤務していて、中学生の患児さんに<話し方が、なんか、小児科>って言われて、中学生なのに小学生やもっと小さな人たちへの話し方になっていた部分があって、それが不快だったのかなって気にしていたんです。小児科の看護師は患児さんの年齢を意識して接するけど、成人病棟ではどなたも大人だからだいたい同じ丁寧語になるわけで」
 同室の患者さんがいなくなり、病室に一人になったからか、磯田君にいつになく寂しげな表情が見られたため、さしさわりにない雑談として彼女は話しました。
 すると磯田君は、そっぽを向いて「わかりません。おやすみなさい」と返して、掛け布団をかぶってしまったのでした。予想外の反応でした。
 ナースコールの対応として桜田さんが訪室すると、磯田君はベッドライトの元であおむけになり、天井を見つめながら話しはじめました。
「さきほどは、嫌な感じの態度をとってすみませんでした」
 と言いながら桜田さんに向けられた磯田君の顔は、別人といってもいいような子どもっぽい表情になっていました。そして、その顔は急にゆがみ、磯田君はまた布団をかぶってしまうと、泣きながら話しはじめました。
「小児病棟に移りたいです。ふえーん、本当は、本当は、小児病棟でなければだめなんです。ふぇーん、大人になったら喘息は治る予定で、水泳やったり、いろいろがんばってきましたから、ぼくが成人の病棟に入院するなんておかしなことなんです。治っていないんだから、まだ大人ではないんです。だから小児病棟なんです。桜田さん、いまぼくが泣いてしまったことは先生にも誰にも言わないでくださいね、ふえーん」
 喘息が治っていないのに成人病棟に入院するということは、彼にとって理不尽な事態だったわけです。桜田さんは、高校の養護教諭になった友人が生徒について「当校の子どもはね」と<子ども>という言い方をすることをふと思い出しました。
 翌朝、主治医と面談した磯田君は小児病棟へ移っていきました。その際、日勤勤務だった桜田さんに磯田君は、秘かに言ったのです。
「ぼくが昨夜、泣いたことを忘れていただくために、ぼくの存在自体を忘れてほしいんです。万が一どこかで会っても絶対に知らないふりをしてもらいたいんです」
「わかりました」
 
 レントゲン室を出てきた磯田君は、桜田さんが立つほうに歩いてきます。磯田君は桜田さんをちらと見てそのまま表情を変えずに過ぎていき、桜田さんも知らんふりをしました。看護師としては、検査を終えたらしい方に職員として会釈などするのが常ですが、そうすると約束を破ったように磯田さんが感じるかもしれないと思ったからです。

 桜田さんが、遠くなる磯田君の背中を見送っていると、廊下の角を曲がる直前に彼はくるりと振り返り、桜田さんに向かって大人びたお辞儀をしたそうです。

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