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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第129回 春のたてこもり 2015/3
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 某病棟のスタッフステーション。壁時計が15時50分をさしています。日暮れ前の西日が、窓から室内に差し込んでいます。
 16時からの申し送りを控えたこの時間はいつも、ナースや医師たちの出入りが激しく騒がしいのですが、今日はいつになく静かで緊張感が漂っています。
 スタッフステーションの奥にあるナース休憩室のドアを二人のナースがむっとした表情でノックしながら声をあげます。
「とにかく開けてください。準夜に入る前に冷蔵庫に入れているジュース飲みたいんですけど」
「早く開けてください! とても迷惑なんですけど」
 5分ほど前に、この二人が休憩室に入ろうとしたところ、内鍵がかけられており、中にいるのは日勤のAチームのナース・竹内美紀さん(26歳)であることがわかりました。
 準夜のナース二人が、休憩室のドア下から出てきたメモを見て、パソコンに向かっている主任にその内容を伝えます。
「リーダーの三枝さんが、前言を撤回し、私に謝罪していただければ、すぐに鍵を開けます。三枝さんは、なぜすぐにそうしないのでしょうか 竹内」
 主任と準夜ナースの二人は、かたわらでパソコンの前に立ち記録している三枝みどりさん(26歳)の冷静な雰囲気の横顔に目をやります。
 それを受けて三枝さんは、記録をつづけながら早口で言います。
「さっき説明したように、私はチームリーダーとして、前の病棟とはやり方が違うのだということを彼女に伝えたかっただけです。撤回も謝罪もいたしません。とにかく、申し送りが迫っていますので」
 主任と準夜ナースの二人は、もっともだという顔をして、休憩室のドア前へと向かいます。そして主任が言います。
「竹内さん、とにかくは開けていただけませんか? お互い、顔を見ながら話しあいましょう。閉じこもるなんて、大人げないわ、ねっ、竹内さん」
 そこに、時間ぎりぎりに出勤してきたもう一人の準夜メンバーも、状況を聞いて、休憩室のドアをバンバンと手のひらでたたきます。
 スタッフステーションの隅では、内分泌科部長と看護師長が二人とも眉間に皺を寄せて、なにやらひそひそと話していましたが、休憩室のほうに目くばせをして部長は「なんだ、大事な話をしている時にこの騒ぎは。こないだこっちに異動してきた看護師は問題児だったのか」と師長に言います。師長は「二人は実習グループまで同じだった同級生で、仲は悪くないはずなんですけどね」と首を傾げます。

 今日の昼、三枝さんと竹内さんは、Aチーム4人の日勤メンバーの後半の昼休み組となって、一緒に職員食堂に行ったあと、休憩室でほかのチームのメンバーとともにしばし過ごしたのでした。
 その休憩が終わり、みながスタッフステーションへと出て行くと、休憩室のテーブルを拭いている竹内さんにだけ聞こえるように、三枝さんは低い小声で言ったのでした。
「休憩室から出てこなくていいですから。いないほうがスムーズに進みますから」
 三枝さんは、ひと月前に異動してきた竹内さんに対し、表向きは同級生らしくフレンドリーに接していましたが、このところ、時々低い小声で、ですます調の言い方をするようになっていました。
 
 準夜ナースの三人は、ドアをノックしながら声をあげます。
「非常識すぎよ!」
「そうよ。異動してきたなり、こんな迷惑かけて、人間関係悪くなりますよ。こんなことして、ここで仕事やっていけるんですか?」
「これって、業務妨害じゃないかしら」
「そうよ、犯罪じゃない? いいんですか? 犯罪者になっても」
「新人でもあるまいし、ちょっと言い方が嫌味だとかきついとか、耐性あるはずでしょ」
「それに、休憩室から出てこなくていいと言われたすぐそのときに立てこもるのじゃなくて、あとになってそうするのは何故?」
 すると、竹内さんからメモが出てきます。
 それを準夜メンバーのひとりが読み上げます。
「私がやるべき最低限のことだけはやってからと思いました。とにかく、三枝さんが前言撤回と謝罪しなければ鍵をあけません。首になっても犯罪者になってもいいです」
 スタッフステーションにいるナースたちが、あきれたような表情になります。
 看護師長が、すたすたと三枝さんのそばに行きます。
「とにかく場をおさめるために、あなた、ひとまず竹内さんが満足いくように、対応してくださらない?」
「それはできません。間違っているのは彼女ですから。鍵をこわしてしまうとか、どうでしょう」
「早く! とにかくドアのところに行って、彼女と話しなさい!」
 師長は三枝さんを休憩室のドアの前まで引っ張っていき、彼女になにやら耳打ちします。
 三枝さんは、ドアに近づきます。
「三枝です。前言を撤回し謝罪します」
 大きめの声で言いました。
 するとドアから竹内さんのメモが出てきて、それを素早く準夜メンバーがとり、読み上げます。
「『本気で撤回して謝罪してください』だって。もう、やだ、前代未聞だよね、師長、鍵をこわしてもらいましょうよ」
 と、休憩室のドアのすりガラスの小窓の部分に、竹内さんが顔を近づけます。
「三枝さん! いや、みどり!」竹内さんが大声で言うのが聞こえます。「あなたが言ったことを、人として看護師として、そして友達として私は許しません。でも、本気で撤回して謝罪してくれるなら、許してもいいです! みどり、あなたは私に無意識に言葉を発しているのかもしれない。昼休み明けに、この休憩室で私に言ったことをちゃんと思い出して!」
 準夜メンバーらが「とにかく、鍵を開けて話しなさい!」とドアをたたきます。
 と、部長がドアの前にやってきて、中の竹内さんに穏やかに声をかけます。
「君、ちょっと落ち着いてよ。こんなところでこんなタイミングに同級生に喧嘩を売るなんて、子どもじゃあるまいし。警察に通報しますよ、いいですか?」
 その言葉をさえぎるように悲鳴のような「ごめんなさい!」という声がひびきます。
 声の主は三枝さんでした。彼女はぶつぶつと語りだします。
「ええ、言いました。言った。私はあなたに、人として看護師として、友達として言ってはいけないことを言いました。えーと、私、もうすぐ日が暮れますよ、暮れてしまったら、もう朝がこないみたいで怖くて……」
 意味不明なことを少し口走り、三枝さんはしゃがみこみ頭を抱えました。彼女は、竹内さんに「死ねよ、死ね、おまえなんか」と何度も言ったことを思い出したのです。いや、気付いたという表現が正確です。
 ドアが開き、竹内さんが出てきました。
 実は、三枝さんは自分が精神的に不調なのかもしれないという疑念を否定しながらこのところ勤務を続けていたのでした。そのサインを、気の置けない竹内さんにのみ出していたのです。

 以上、約10分間の立てこもり事件の顛末です。3年前の話です。

 この出来事をきっかけに三枝さんは、治療と療養のためにしばらく休職し、三ヵ月後に復帰したそうです。そして、竹内さんとは最も信頼する同僚・友達関係になったのだとか。

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