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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第131回 夫婦じゃんけん 2015/5
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 訪問看護ステーション「さわやか」の看護師・橘ゆかりさん(32歳)が、坂上洋佑さん(88歳)宅の玄関ベルを押します。
「さわやかの橘です、こんにちは!」
ドアフォンに明るく話しかけたあとの彼女の顔が曇ります。今日の坂上さんの訪問は少し気が重いのです。

 坂上さんは、左半身マヒの関係で関節拘縮が生じ、左手は指が複雑に入り組んだグーの形になっています。皮膚と皮膚の密着による皮膚障害の予防として、爪切りやスキンケアが重要なのですが、その処置のために指が動くと痛みが伴います。痛みが出ないように工夫して行うのですが、坂上さんはこのケアが大嫌いです。顔をゆがめ、動く右手でケアの手をはらおうとしたりします。過去に痛みを感じたことを思いだし、痛みへの恐れや不安がふくらむようです。

 前回の訪問日――。
 橘さんは、いつものように坂上さんに声をかけました。
「それでは、次に左手のスキンケアをさせていただきたいと思います。痛みのないように細心の注意を払って行いますので、よろしくお願いいたします」
「……」
 仰向けになっている坂上さんは警戒心を含む眼で、じっと橘さんを見つめます。手のケアが嫌いなため、いつもそんな様子です。
「そうだ、じゃんけんは?」
 橘さんは、坂上さんの奥さんに声をかけます。奥さんは、さきほどかかってきた携帯電話に出ています。
 坂上さんと奥さんは、ベッドの上半身部分を斜めにするときや、食事のとき、着替えのときなど、なにかをはじめる前のそのときに、必ずじゃんけんをします。
 そのやり方やルールは独特で、奥さんの右手は坂上さんの健側の右手とじゃんけんするときもあれば、患側のグーが相手になるときもあります。健側の右手が使われるときには、坂上さんが勝つまで行われます。
そして、グーの左手とのじゃんけんでは、奥さんの判断によって勝負が決められます。勝敗のさじ加減が二人のパワーバランスを保っているようです。
 左手のスキンケアをはじめる前に奥さんは、坂上さんの左手に決まってパーを出し、「あっ、勝ったね。では、開始」と言います。それを合図に、橘さんはケアをはじめるのです。軽度の認知症である坂上さんにとって、奥さんとのじゃんけんは大切な生活のリズムとなっているのかもしれません。
 そのお約束のじゃんけんがまだ済んでいないので、橘さんは奥さんに声をかけたのでした。
 携帯電話に「ちょっと、待って」と言うと奥さんは、「すぐ終わらないから、橘さんお願い!」と言って、通話を再開しました。
 それを受けて橘さんは、坂上さんのほうに向きなおり、笑顔になりいいました。
「それでは、今日は奥様の代わりをさせていただきますね、じゃんけん……」
 奥さんと同じようにパーを出し「あっ、勝ちました」と言ったあと、いつもどおりの手順で左手のケアをはじめたのでした。
 まず、左手を包むように泡を載せました。
 すると、坂上さんは橘さんを睨むのでした。
「どうなさいました?」
「……」
 坂上さんは、無言でぷいっと顔をそむけます。
 普段、この段階でこれほどに坂上さんが機嫌をそこねることはありません。橘さんは、<奥さんが携帯電話で話していることが気に入らないのだな>と思い、「続けますね」と声をかけ、次のステップに進みます。やわらかいゴム製の歯間ブラシを利用し、指の間の洗浄を行うのです。

 奥さんが電話を終えて、ケアを手伝いはじめます。坂上さんはというと、不満気な表情です。奥さんが坂上さんに言います。
「どうしたんですか? こわい顔して。あとは、お湯をかけて流して、黄色いふわふわのを指に巻いてもらって終わりですよ。こうして橘さんにマメに洗っていただいているお蔭で、皮膚が悪くならなくて済んでいるんですからね、ありがたいですね」
 すると、坂上さんはフグのように頬をぷっくり膨らませました。そして、頭の右上に置かれていた熊のめいぐるみを右手でつかみ、橘さんに投げつけたのです。
 オーバーテーブルの上には、左手にぬるま湯をかけるために用意された園芸用の小さなジョウロがありました。橘さんにぶつかった熊がジョウロにぶつかり、横倒しになったそれからお湯がこぼれます。
 慌ててそれに対処しながら、橘さんはここではじめて、坂上さんが怒っている原因に見当がつきました
 橘さんは即座に坂上さんの顔のそばにゆき、頭を下げます。
「さきほど、私が、奥様の代わりにじゃんけんをしてしまったことがご不快だったのではないでしょうか、無神経なことをして申し訳ありません」
 すると、奥さん。
「あら、そんなことを怒っているとしたら、それは私が橘さんにお願いしたことなんですからね。とにかく、いつもよくしてくださる橘さんに対して、罰当たりなことしないでくださいよ!」
 温和な奥さんが珍しく声を荒げます。
 橘さんの胸の内では反省の念が大きくふくらみました。ご夫婦のじゃんけんは、ご夫婦ゆえに成立しているものです。<簡単に代わりを引き受けてしまっただけではなく、当然のごとくパーを出し「勝ちました」などと言ってしまった。その無神経さが坂上さんの心を踏みにじってしまったんだ。坂上さんは元々、左手のケアに対してよいイメージがないのに、今回のことでさらにケアの受け入れが悪くなってしまう恐れがある。看護師として、配慮に欠けていた……>
 この日坂上さんは、橘さんが帰る時間になっても機嫌の悪いままでした。

 玄関ドアが開きます。坂上さんの奥さんが橘さんの顔を見るなり深く頭を下げます。そして、すまなそうな表情の顔を上げて言います。
「前回は本当に嫌な思いさせてしまいまして。どうか、お許しくださいね。あのあと、主人は長らくヘソ曲げていたんですけどね、私、とっておきの一言をね、言ったんです。そしたら素直になってね、深く反省したみたい。橘さん、もう一回、主人とじゃんけんしてくれない? 今度は主人の右手と」
 そう言う奥さんに背中を押されながら橘さんが、坂上さんの部屋に入ります。坂上さんはすまし顔で小さく右手をあげ、橘さんに挨拶します。
 奥さんにうながされるまま、橘さんは坂上さんのベッドの右サイドに立ち、じゃんけんをはじめます。
奥さんの声に合わせて「はい、じゃんけん、ぽん」。
坂上さんはグー、橘さんはチョキ。
すると、坂上さんが「もう一回」という仕草をします。
 ふたたび奥さんの掛け声にあわせてじゃんけんをすると、今度は二人ともチョキ。すると、坂上さんが「もう一回」の仕草。何度かそれを繰り返し、坂上さんがグー、橘さんがパーとなります。すると、坂上さんは、右手の親指と人差し指で輪っかをつくりオーケーのサインを出します。
 そこで、奥さんが橘さんの耳元で言いました。
「右手でじゃんけんをして、主人が負けを受け入れたのは橘さんだけですからね、まあ、これが主人の謝罪の証として受け取っていただけましたら幸いです。なんか、夫婦って不思議な関係。ほんと、ごめんなさいね」

 実は橘さんは、坂上さんが怒った原因が本当は違う何かだったのではないだろうか、という考えが頭の片隅にありました。しかし、橘さんが「いえ、ご主人を怒らせてしまったのは私ですから」と返した言葉を奥さんは否定しなかったのですから、やはり橘さんのあの行動に坂上さんは腹を立てたのです。橘さんは改めて反省すると同時に、坂上さん夫妻がともに過ごしてきた時間の重みを感じたのでした。

奥さんが坂上さんを反省させたとっておきの一言とは何なのか、奥さんは教えてくれないそうです。

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