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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第132回 雨戸 2015/6
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 雨の朝。
 訪問看護師の谷川さん(38歳)は、雨合羽姿で自転車をこぎ、訪問先へと向かっています。
「雨戸よ、お願い、開いていてください!」
 雨合羽に雨粒が当たる音がうるさく聞こえている関係か、大きな声になっても気になりません。
 
 雨戸が開いていてほしいのは、これから訪問する板垣芳之助さん(90歳)宅です。芳之助さんと同居している奥様は加齢による体力の衰えがあり、芳之助さんの世話の多くを隣に住む娘の志麻子さんが行っています。
 なんとか病状の安定を保っている芳之助さんですが、昨年、梅雨の終わりごろにふさぎこみ、それが食欲・運動の低下をもたらし、肺炎を発症して緊急入院する事態になってしまいました。彼のふさぎこみは、雨戸を締め切りにするところからはじまりました。
 今年も、3日前に芳之助さんは志麻子さんに雨戸を開けないでほしいと言いました。志麻子さんはそれを無視して雨戸を開けましたが、芳之助さんは彼女を呼び出すブザーを押し続け、結局、雨戸をしめさせたのでした。
 高齢の芳之助さんが昨年同様に肺炎になどなったなら、それは命の危険につながるおそれがあるわけです。

 隣の志麻子さん宅には、芳之助さんのひ孫の剛君が住んでいます。剛君の右腿の前面に鶏卵大の痣がありました。剛君は小さいころからスイミングスクールに通っていましたが、腿の痣などまったく気にしていない様子でした。
「さすが私のひ孫だ。男子たるもの、そんなことなど気にせず、堂々とふるまえばいいんだからな」
 芳之助さんはつねづねそう語っていました。それをうけて剛君は胸をはって「うん。どうってことないよ」と応え、クロールで泳ぐ仕草を見せたりしていたのでした。
 小学校入学を控えたある日のこと、剛君は芳之助さんに打ち明けました。
「明日さ、スイミングスクールの記録会があるんだけど、一般公開というのをやるらしくて、実は……バレンタインのときにチョコをくれた女の子も見に来るらしくて、その……」
「そのって、なんだ。言ってみろ」
「ぼくの痣を見たら心配するんじゃないかなって。そしたら可愛そうだなって。どうしようかなって」
 芳之助さんは、ひ孫のいじらしさに感じ入りました。
 その女子に心配をかけたくない、ということを、まだ小学生にもなっていない子どもが考え付いたことがうれしかったのです。
 そして、芳之助さんはこう意見しました。
「その女子が立つところからは、たぶん、剛の痣なんて見えないと思うし、万が一見えたって堂々としていれば心配かけないだろう。そういうときこそ、痣なんて気にせずに堂々とふるまうのが男としてかっこいいんだ」
「そうだよね」
「そうだよ。いつも通りでいいんだよ。まあ、絶対に見られたくない、なんて思うねちねちした奴なんかは、肌色の膏薬でもペタリと貼って隠したりするかもしれないけどな、はは」
 その夜、剛君は、母親に膏薬とは何かとおしえてもらい、翌日、プールに入る直前に肌色の湿布薬を痣の上に貼り、記録会に挑んだのでした。
無事に記録会を終えた剛君でしたが、シャワーで湿布薬がはがれてしまい、数人の男児がそれをからかいました。「誰か、見られたくない人でも来てたのかな」と。

 その翌日、剛君はスイミングスクールを辞めました。理由は「もう小学校に上がるから」で、誰も疑問に思いませんでした。
 そして剛君は小学一年生となり、学校の体育で水泳の話題が出た梅雨の時期に、剛君は担任の先生にプールに入りたくないと申し出たのでした。
 担任の先生は、剛君の母親に会っていいました。
「腿の痣のことでからかわれたことがあるから、またそういうことがあると嫌だから、皮膚が弱いとかの理由だとして見学にさせてほしいっていうんです。学年主任や養護教諭などにも相談し、見学の形でよいのではないかと」
「ちょっと待ってください。剛はスイミングスクールにも通っていたのですが、隠したりせずにやってましたし、からかわれたりして辛い思いしたなんて、聞いたことがありません!」 
 とにかく、母子でよく話し合ってみることになったのでした。
 母親が訊ねると、剛君は素直にいきさつを打ち明けたのでした。そして、心のうちを泣きながらこう付け加えたのです。
「大きいじいちゃんには、女の子に心配かけたくないって言ったけど、ほんとはぼくが見られるのが恥ずかしくて貼ったんだ。だからぼくはねちねちした奴なんだ」
 それを聞き母親は、剛君を連れて芳之助さんのところへ行きました。
「おじいちゃん! 痣を隠すことはねちねちした人間だみたいなことを言ったから、剛がいろいろ悩んじゃったのよ」
 このとき初めて芳之助さんは、スイミングスクールの記録会の前日から水泳の授業見学の申し出までの顛末を知ったのです。
 そして、芳之助さんは雨戸を締め切ったままとなってしまったのでした。ひ孫を悩ませてしまった責任を感じたようでした。結局、剛君は風邪気味としてプールの日は見学することになったのでした。

 今年から芳之助さんの訪問をするようになった看護師の谷川さんは、今後さまざまなケースに役立つのではと考え、ファンデーションを活用して痣などのカバーをするメディカルカバーメイクの講習に足を運んでいたのです。カバーしていることがわからないばかりか、水泳をしてもまったく落ちないというメイクなのです。

 そして昨日の夕方、谷川さんは剛君とお母さんにメディカルカバーメイクを紹介したのです。
「剛君、お母さんがお顔のメイクするみたいに、カバーしてもいいのよ。何も気にせず水泳をやるためにカバーをするんだ、と自分で判断できることがかっこいいと思う。剛君の大きいおじいちゃんは、剛君が水泳をしなくなったのは自分のせいではないかととても心配しているから、<水泳やるよっ>って言ってあげて、大きいおじいちゃんを剛君が元気にしてあげて。もちろん、メイクでカバーするのをやるのかどうするかは剛君が決めていいんだよ」
 剛君は、お風呂場でザーザーとカバーメイクした部分にシャワーをかけて、メイクが落ちないのを確認し、「やる」と決めたのでした。
 その後、剛君とお母さんは芳之助さんのところへゆき、カバーメイクして水泳をすることを報告に行ったはずなのです。
 それが功を奏していれば、雨戸が開いている可能性が高いだろうと谷川さんは考えているのです。

 谷川さんが芳之助さん宅に到着します。

 はたして芳之助さんの部屋の雨戸は――開いていたのでした。

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