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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第134回 キャッチボール 2015/8
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 ある循環器内科の病棟に、菅谷渉さん(75歳)が入院中です。明け方に胸痛発作があり、一人暮らしの渉さんは自ら119番に電話し救急搬送されました。その後検査を経て「安静時狭心症」と診断されました。
 
 夜。
 仕事帰りらしい服装で渉さんの一人息子、隆さん(50歳)が面会にやってきました。彼が面会に来る時間には、渉さんはきまって眠っています。面会時間はあと30分ほどで終了です。
 父親のベッドの足元のほうにパイプ椅子を広げ、隆さんは腰かけます。面会者は患者の顔あるいは手のそばあたりに腰かけることが多いため、隆さんは少し遠い位置です。
 隆さんは父親の頭のほうをちらりと見たあと、手に持つスマホ画面に視線を戻します。
そして今朝がた、久しぶりに見た夢のことを思いだします。

 もう少しで日が暮れてしまう。
 そんな時間に、小学3年生の隆君は、父親の渉さんとキャッチボールをしています。どちらがやろうと言いだしたのか、それはよくわかりません。たぶん、その時間なのだから、渉さんが仕事から帰ってきて、きまぐれでやろうと言いだしたんだろう、と隆さんは眠りの中で推理します。
「投げろ」
 さわれるほどの真ん前に立ち、渉さんがにやりとして隆君にいいます。
<ちょっと近すぎるんだけど>
 そう心の中でつぶやいて、隆君はボールを投げます。
 それを受け取った渉さんは、一歩後ろに下がってボールを投げ返し、「投げろ」といいます。
<それでもまだ近いんだけどね>
 隆君はボールを投げます。
 隆君から一球受け取るごとに渉さんはうしろに下がっていきます。
 投げて、受けて、を繰り返すとともに、だんだんと渉さんが隆君から遠ざかっていきます。
<ちょっとずつ遠くなってきたな>
 そう心でつぶやきながら隆君は、渉さんのところに届くように力いっぱい投げます。
<よし、今度はもっと力をこめて腕を大きく振って投げなきゃ>
 受けたボールを、左手のグローブにぴしりと投げ入れ顔をあげると、渉さんが見えません。
<あれ? 日が暮れて暗くなって見えなくなっちゃった?  でも、いまさっきまで見えていたのに。いったい、どこにいっちゃったんだ! 父さん! どこ? いる? いるよね>
 しかし、改めて目をこらしても渉さんの姿は見えません。急に不安と寂しさがふくらみます。
<父さんはどこかに行ってしまったんだろうか。もしかして死んだの? どうして何も言わずにいなくなるの?>
 身体から力が抜けてもう立っていられないのに、身体が石のように固まってしまい倒れることができない、泣きたい気がするのに声も出ない、とても辛い……。

 隆さんが小学校2年生のとき、彼の母親は病気で他界しました。それ以来、隆さんが結婚して家を出るまで、父一人子一人で暮らしました。
 隆さんは10年前に離婚して一人住まいになりましたが、渉さんとはずっと別々に暮らしています。
 隆さんのキャッチボールの夢はいつも、自身が石のように固まってしまうところで終わります。大学を出るくらいまでは、この夢をたびたび見たものでしたが、その後は見なくなっていました。
 今朝、何十年ぶりに夢にみたわけです。
 渉さんの入院が夢のきっかけとなったのだろう、と隆さんは思っています。
<何かオヤジに対してアクションを起こしたほうがいいのだろうか>
 一緒に暮らすことを提案するとか……。しかし心の中でかぶりをふります。
<そんなこと、オレからは言いたくない>
 隆さんは一緒に暮らしていたころでも、渉さんが遠くにいるような感覚でした。甘えさせないぞ、と常に態度で示されているような。
<だから、こっちからは絶対にオヤジに歩み寄らない、と子どものときにきめたんだ>
 しかし、渉さんの身体が心配ではあるのです。渉さんの主治医は、たぶんこれまでに何度も胸痛はあったろうと思われる、と話していました。一人、自室で胸の痛みを我慢している渉さんを想像すると、隆さんは切なくなりました。

 翌日の夜。
 隆さんが、昨日と同じ時間に面会にやってきました。病室に入ると、いつものように渉さんは眠っていて隆さんは少しほっとします。起きていたなら、最初は何か話したとしてもすぐに話がとぎれてしまう。そして間がもたずに困惑するような気がするからです。
 座ろうとするといつものパイプ椅子がなく、折り畳みではない椅子が、渉さんの顔寄り――つまり多くの面会者が座る位置――のスペースに置いてあります。さらに、その横に点滴台が置かれています。
 隆さんは、そこに座るのは渉さんに近すぎると感じ、椅子をずらそうとしますが、椅子の足で点滴台をひっかけてしまうのではないかと心配になり、仕方なくその場所で座ります。
 椅子に座ったなら自動的に、渉さんの寝顔が隆さんの目に入りました。照れくささを忘れ、思わずそばでまじまじと見つめてしまいます。
<こういう顔だったっけかなあ>
 考えてみれば、父親の寝顔をみるのは、家を出て以来はじめででした。その顔は他人のようにも見えます。これまで、たまに会って、近くで顔をあわせることはあっても、まともに顔を見る機会がなかったことに気づきます。
<すっかり高齢者の顔だな>
 喉のあたりのたるみ、口角のゆるんだ感じ、飛び出るように数本だけ長く伸びた眉毛。
 つい、顔を近づけて細部を観察してしまいます。
 と、渉さんが目蓋をあけます。目がさめたようです。隆さんは驚いて咄嗟に顔を離します。
「隆か、来てくれてたのか」
 渉さんは、穏やかにうれしさの漂う言い方をしました。それを聞いて隆さんは、言葉がいつになく自然に出てきます。
「昔、オレが小3のころ、キャッチボールやったよな、夕方」
「うーん、オレはお前と一度もキャッチボールをやったことないぞ。気がかりだったから覚えているんだ。キャッチボール用のグローブを買ってやりながら相手してやる暇がなくてね。あのころ仕事がものすごく忙しくて、夜のご飯はおばさんに来てもらっていただろ」
<じゃあ、あの夢は夢の中で自分が作った話なのかな>
 隆さんは首をかしげます。
「そういえば」と渉さんが思い出したようにいいます。「となりのマサル君が夕方に隆と何度かキャッチボールしてくれたんだよ。隆の練習のためといって、マサル君がキャッチボールの距離を少しずつ空けていくらしいだけど、隆が途中で泣きだしたって聞いたことがあるよ」
<オヤジではなかったのか……>
 隆さんは、心の中の曇りがすーっと消えてゆく感覚になったそうです。

 渉さんと同室の患者さんのベッドサイドを訪れた男性看護師が、渉さん親子が和やかに話しているのをカーテン越しに聞き、心中でピースサインをつくります。

 彼は、隆さんがいつも座っているパイプ椅子を別の椅子に変え、点滴台もその横においた人物なのです。

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