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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第135回 プレイ 2015/9
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 夕方。
 看護師の橋本咲子さん(28歳)が、予定の訪問を終えて訪問看護ステーション・ダリアへ戻るために軽自動車を走らせています。
 顏をしかめ、唇を震わせています。
 怒りとくやしさがおさまらないのです。

 今日の最後の訪問先は、工藤憲男さん(60歳)でした。腰椎損傷により下半身マヒ、仙骨部に褥瘡があります。妻のノゾミさん(58歳)と二人暮らしです。
 橋本さんが訪問するときに工藤夫妻は、いつも「プレイ」をしていました。何かになりきってやりとりをして遊ぶことを夫妻はプレイと呼んでいたのです。
 例えば、憲男さんが高校教師でノゾミさんは女子高校生。あるいは、近所の奥さま同士、八百屋の夫婦、同じ飼い主の犬と猫、デパートの店員と客、などなど。
 橋本さんが訪問しても夫妻はプレイを続けるので、はじめ彼女はたいへん困惑しました。
 犬と猫の設定のときなどは、橋本さんが声をかけると「そうだワン」とか「困りますニャア」といった応答で、<業務でまじめに接している者に対して、ふざけすぎているのではないか>と内心思いましたが、夫妻がとても楽しそうにしているので、意見することもなく笑顔でやりすごすようになりました。
 夫妻がプレイを続けるがために、ケアが思うように進まないこともありました。しかし橋本さんは、次の訪問先への到着時間を思ってあせりながらも、<こちらの都合でさっさと進めてはいけない>と自分に言い聞かせて接してきました。プレイが長年の療養とその介護のストレス緩和になっているのかもしれない、とも考えました。

 二週間前のことです。
 訪問を終えて帰ろうとする橋本さんに、玄関でノゾミさんが神妙なおももちで耳打ちしました。
「実はね、私、離婚したいんですよ。あの状態の夫と別れる場合、24時間のヘルパーつけるとか、いろいろ体制を整えれば大丈夫よね」
「あ、あの」
 あまりにも意外なことを聞かされた驚きと、次の訪問先へと急がなければならないあせりとで、困惑します。
「病気の人と別れるなんて、わたし、人でなし?」
「そ、そんなことは。まずは私よりも制度活用などを宍戸さん(ケアマネージャー)にご相談されたほうがよいのではないでしょうか」
「いや、それはまだだめよ。夫にも言ってないんだし。まずはこっそりといろいろ知っておきたいわけ。ねっ、お願い、あなたの可能な範囲で夫が一人になった場合の医療や介護のこと、調べてくれる? それと、いまはまだ、知らないふりをしててね」
「はい」
 
 橋本さんは、可能な範囲で工藤憲男さんが一人身になった場合のサポート体制にまつわる情報をとりはじめました。
 また、ノゾミさんに打ち明けられたあとの訪問の際、楽しそうにプレイに興じる夫妻を前に、いつものようにふるまいながらも橋本さんはさびしいようなむなしいような複雑な心境となりました。

 そして今日の訪問です。
 橋本さんは夕方の最後の順番の時間に工藤さん宅をたずねました。
 今日は『金色夜叉』という小説の主人公、寛一とお宮(みいさん)という設定でプレイがはじまっていました。
「寛一さん! 橋本さんがいらっしゃいましたよ」
「そうかね、みいさん」
 とこんな調子です。
 橋本さんはいつものように憲男さんの褥瘡の処置をはじめました。憲男さんは側臥位の状態になってベッド柵につかまり、ノゾミさんはその身体を支えます。
 憲男さんがぶつぶつ言いだします。
「みいさん、よくおぼえてお置き。来年の今月今夜は、寛一はどこでこの月を見るのだか! 再来年の今月今夜、十年のちの今月今夜!」
「寛一さん!」
 ノゾミさんが返します。
 いつになく二人は芝居がかった言い回しです。
「寛一さん、離婚してください。いいえ、工藤憲男さん、離婚してください!」
 え? どきりとした橋本さんの手は止まってしまいます。いま、言っちゃうの?
 ノゾミさんは声を低くしてつづけます。
「私、ずいぶん前から考えておりましたの。お願いですから別れてください」
 橋本さんの脈が一気に早まります。
 憲男さんがノゾミさんに返します。
「みいさん、一体、なにを言いだすんだね。な、なにを言ってるんだ!」
 みいさん、と呼ぶということは、プレイの感覚で言ってるわけ? それとも動揺してそう言ってしまったの? 橋本さんは内心おろおろします。しかし褥瘡処置はきちんと終わらせなければなりません。
「橋本さんにも相談したんですよ」
「なに!」
 橋本さんの位置からは憲男さんの表情は見えませんが、剣のある声です。
 会話が止まってシーンとする中、憲男さんに仰臥位になっていただきます。
 なんと声をかけたらいいだろう、と思いながら、必要物品を片付けてから橋本さんが顔をあげると、なぜか憲男さんもノゾミさんもにこにこしています。
 そしてノゾミさんがスケッチブックを取り出し、橋本さんに見せました。そこには、「ドッキリ 大成功!」と書いてあります。
「は? え?」
 意味がわかりません。
 するとノゾミさんは手を叩いて笑いながら言います。
「ドッキリよ、よくテレビでやってるじゃない。橋本さんにドッキリをかけたってわけ。たまには、そんないたずらもおもしろいかもとおもって。すごい、ほんと、大成功だね」
 憲男さんもにやにやしています。
「え? ということは、離婚云々も噓なんですか?」
「そうよ、ドッキリだもの」
「そ、そんな。ひ、ひどいです」
「あら、そんなこわい顔しないで」
「ひ、ひどいです」
 橋本さんの顔は青ざめ、まもなく涙がこぼれはじめます。
「冗談なのよ、冗談」
「失礼します」
「あっ、ちょっと、橋本さん」
 橋本さんは工藤さん宅を逃げるようにあとにしました。

 橋本さんは、訪問看護ステーション・ダリアに着くなり、カンファレンスで集まっていた所長や同僚たちに出来事を報告します。
 医療者して冷静さを失ってはいけないと思い、なるべく淡々とレポートしましたが、握った拳は震えてしまいました。
 所長が目を吊り上げて立ち上がり言います。
「橋本さん、いますぐ工藤さん宅に行きましょう。謝ってもらいます!」
 いままでに見たことにない怒りの表情の所長に、橋本さんは続きました。

 工藤さん宅の玄関が開けられると、泣きそうな顔のノゾミさんが立っていました。彼女はその場に土下座し、床に額をこすりつけて言いました。
「ご、ごめんなさい! ほんとうは、あのあと橋本さんにちゃんと謝って、いろいろ話したいと思ってたんですが。橋本さんが涙をこぼして走ってお帰りになって、それでやっと私と夫は我に返りまして、本当に、申し訳ないことをしてしまったと思いました。私たち、知らないうちにいじけた性格になってしまったのかもしれません。実は――」
 工藤夫妻は一人娘を五歳のときに亡くしたといいます。生きていればちょうど橋本さんくらいの年になっているとのこと。ノゾミさんがつづけます。
「真面目で大人しい橋本さんを、いつも可愛いねえって夫と話しておりまして、看護師さんと利用者の立場を超えた関係になりたいなんて話していて、そのうちに、なぜかドッキリを仕掛けてみよう、となってしまいまして。申し訳ありません!」
「とにかく、橋本はうちの大事な大事なスタッフなんですよ」と所長。戦意がみるみるうちに減っていくのが顔に出ています。「まあ、ご事情はわかりました」

 そのあと、どうしてもとノゾミさんに引き止められ、橋本さんと所長はお宅の中に入り、お茶をご馳走になったそうです。
 そして、橋本さんと所長もプレイに巻き込まれたのだとか。所長は、少し前にテレビで流行ったお笑いコントの「ダメよ~ダメダメ」をやるはめになり、いざやってみたら案外上手だったとのことです。

 夫妻の悪ノリが過ぎていたのは否めないものの、自分に近づきたいがゆえのドッキリだったことを知った橋本さんの胸中からは、怒りもくやしさもなくなったそうです。

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