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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第137回 ホームエレベーター 2015/11
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 午前9時過ぎ。
 訪問看護ステーション・コスモスの事務所で、所長の菊川さんが電話をかけています。
「……急用を思い出しました。それでは失礼いたします」
 電話を切った菊川さんは急いでeメールを送信します。子どもの発熱のため急遽休暇をとったナースの代行として、さきほど訪問に出かけた朝比奈淑子さん(25歳)にです。彼女は入職して数ヵ月の若手ナースです。
<宮崎さん夫婦は喧嘩をしているかもしれません。でも、それはお二人の元気の源ともいえるものだから、困惑せずに、そして口を挟まずに笑顔で見守ってくださいね。口論は5分くらいで1ラウンドが終わると思いますので、褥そう処置はそのあとでね。で、お二人の最近の喧嘩のテーマは――>

 宮崎勲さん(82歳)は要介護4の状態で、妻の朋美さん(76歳)と二階建ての一軒家に二人暮らしです。訪問看護や介護、訪問リハビリなどを利用しながら、朋美さんが中心となり勲さんの世話をしています。
 この夫妻は、何かと言えば口喧嘩をはじめます。
そして、ここ一年ほどの喧嘩のテーマは、ホームエレベーターの設置について。
 勲さんは、二階の寝室の窓際のベッド上で療養しているのですが、そこから大きなガラス窓ごしに外を眺めているのが何よりも好きです。固定して見える景色は、大きな合歓の木と空。そこに太陽や月、明けの明星、さまざまに形を変える雲、飛ぶ旅客機などが現れたり、小鳥、カラスがふいに横切ったりします。それを見ながら勲さんは物思いにふけるのです。
その景色は、二階のその位置からでなければ見ることができません。妻の朋美さんは、勲さんの最大の楽しみを奪いたくないため、階段の昇り降りをがんばっています。
そんな朋美さんを気遣って、勲さんは一年前に、ホームエレベーターを設置しようと言いだし、以来、それが二人の喧嘩の種となりました。
朝比奈さんが訪れると、宮崎夫妻は案の定喧嘩をはじめていました。二人は朝比奈さんのあいさつに会釈で応えながら口論をつづけます。勲さんは仰臥位の状態、朋美さんは洗濯物を畳みながらです。
「だから何度言えばわかるのかな。いくらオレより若いって言っても七十何歳のばあさんなんだから、怪我してからでは間に合わないだろ。骨折でもしたら命とりだぞ」
「階段にはすべり止めをやったし手すりもつけてもらったの。いまさらこんなボロ家にホームエレベーターつけるなんて、もったいなすぎるでしょ。一応見積もってもらったら350万だったんだよ。ばかだよ」
「なにがばかだ。ふん、エレベーターはね、ほんとうはどこかのばあさんのためじゃなくて、訪問に来てくれているみなさんのためなんだよ。荷物を持って急な階段を昇り降りしていただいているのは申し訳ないだろ、ばーか」
「私だってね、みなさんには申し訳ないと思ってますよ。でも、みーんな、<奥さんのために設置するならいいけど、そうじゃないなら、いまのままでまったく問題ない>って言ってくれてんのよ」
「なにが、のよ、だよ。あとになって、あのときにケチらずに作ってればなあ、なんてことになっちゃうんだよ、ばか」
「何度、ばかって言えば気がすむのよ! 人をばかって言うほうがばかなんだからね」
「なに! じゃあいいよ、オレのベッドを一階にうつせば解決するんだよ。オレが動けるなら、いますぐにでも自分で歩いて一階に降りてやるんだが、それができないんだから、さあ、運べよ、一階に行ってやるよ!」
「それはダメ、許さない、絶対だめ! ひとつしかない楽しみを奪ったら、一生私を恨むくせに」
 所長の言うとおりだ、と朝比奈さんは思います。相手を思いやっての言い合いですから、朝比奈さんの胸のうちはほのぼのとした感覚になります。自然に微笑みながら1ラウンドが終わるのを待ちます。
 そこへ夫妻のひとり娘の品子さんが訪ねてきました。彼女は電車で一時間半かかる地に住んでいるといいます。
 品子さんは朝比奈さんにあいさつすると、父親と母親を交互に見ながら不満を述べます。
「恥ずかしいからやめてよ! 声が玄関にまで聞こえてきたわよ。いまだにホームエレベーターのことでやりあってるなんてさ、不毛すぎるでしょ」
 品子さんは、あきれたような表情になってふうと息を吐き、ベッドサイドに丸椅子をおいて腰掛けます。そして、父親と母親がいるちょうど真ん中あたりに視線を向けて穏やかにいいます。
「ヨウスケとも話したんだけどさ、母さんだっていつまでも父さんの世話は続けられないんだからさ、二人して介護付きの高齢者住宅とかに入ることを考えてもらったほうがこっちは安心なんだけどね、ここは売ってさ」
 すると朋美さんが、畳んでいた洗濯物を床に叩き付けて目を吊り上げます。
「品子! なんでそんな場所に座ってるのよ。どいて、どいてちょうだい! さっ、早く!」
 品子さんはむっとした顔になって、丸椅子の座面をお尻につけたまま、勲さんの足元方向へと移動します。
「品子、今なんで、どいてって言ったか、わからないんでしよ。訪問にくる看護師さんや介護師さんや栄養士さんは、みんなわかってくれてるわよ、ねっ」
といって朋美さんは朝比奈さんの顔を見ます。
「あっ、はい。宮崎さんが窓からの景色が見えなくなってしまうからですよね」
 言い終えるなり余計なことを言ってしまったかも、と朝比奈さんは心配になってきます。
品子さんはぷいっとそっぽを向いて低くいいます。
「時間をやりくりして一時間半もかけてやってきたのに、なによ! 帰る」
 立ち上がると品子さんは、朝比奈さんをにらみつけて言いました。
「ほんの一瞬、ここに居合わせただけなのに、わかったような顔しないでください!」

 その後、朝比奈さんは褥そうの処置などするべきことをして宮崎さん宅をあとにし、近所のもう一軒の訪問をし終えて最寄駅に戻りました。宮崎さんのところで余計なことを言ってしまったな、と後悔しながら。
 すると、駅前のコーヒーショップから品子さんが出てきました。どうやら朝比奈さんを待っていたようです。
「さっきはひどいこと言って、ごめんなさいねえ。どうか、ご容赦ください。そして、父と母をこらからもどうかよろしくお願いいたします」
 そこまで言うと品子さんはぼろぼろと涙をこぼしはじめます。
 勲さんが窓から見る景色がことのほか好きであることをよく知っていること、品子さんがそれを知っているのを朋美さんはほんとうは知っていること。でも、いろんな家族の歴史が、あんなやりとりにつながっていること、などを涙ながらに品子さんは話しました。そして、目下品子さんはお子さんのことで大きな心配ごとがあるということも。
「私、未熟者で申し訳ありません。でも、ご両親の言い合いはとても生き生きしていて、なんか素敵でした」
 朝比奈さんが率直に述べると、品子さんはしばし宙を見たあと丁寧に御辞儀し、
「バックからお土産出すのも忘れてかっとなって出てきてしまったわ。やっぱり、もう一回、実家に顔出してきます。どうかどうか、今後ともよろしくお願いいたします」
といって、宮崎さん宅へと向かっていきました。
 このとき朝比奈さんは、私は訪問看護師の一歩を踏み出したのだ、という実感を持てた気がしたそうです。

 事務所に戻ってからできごとを報告すると所長に「訪問看護の世界へようこそ。看護師としてどうかかわるか、それを忘れないでね」と言われたそうです。

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