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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第140回 いつまでも先輩 2016/2
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 朝。看護師の水沢亜美さん(32歳)が、満員電車に乗り込みました。
 やっと手すりにつかまり居場所確保ができた彼女は、少し離れた場所に知り合いの顔を見つけます。
 <あっ、園山さんだ>
 水沢さんが初めて勤務した病棟で先輩だった園山より子さん(35歳)です。
<あのときと同じ横顔だ>
 園山さんは、眉間に皺がよりがちなのを中和させるためなのか、洋菓子メーカーのキャラクターの女の子のように口角をきゅっと上げる意識をしているようでした。そのため顔の上半分は険しくて下半分は笑っているような独特の表情になっていることが多かったのでした。

 十年前。水沢さんが夜勤で独り立ちした夜、ともに勤務を務めてくれたのが園山さんともうひとりの先輩でした。
 その日、夜勤がはじまってナースステーションにふたりだけになったとき、園山さんはおもむろに記録の手をとめて顔を上げ、
「今夜、私たち、一夜をともにするんだね」
というと顔をそむけて一拍置き、そのあと向き直り、なにごともなかったかのように記録を再開しました。
 このときに見せた横顔と、電車の中でつり革につかまっている横顔がまったく同じでした。

 水沢さんの脳裏に、あの日の記憶が一気に甦ります。
 あの夜、もうひとりの先輩と交代で、水沢さんと園山さんのふたりが休憩に入ったとき、園山さんはなぜか、自分のことをあれこれ話し始め、水沢さんは驚いたのでした。普段は自分のことなどほとんど話さない人だったからです。
 語ったのは、園山さんと彼女のご主人とのこと。彼女はご主人と時々浄瑠璃ごっこをするというのです。園山さんは浄瑠璃の人形のようにだらりと力を抜いて立ち、その後ろからご主人が浄瑠璃の黒子のようなイメージでぐっとウエストに腕をまわして彼女を抱え、彼女の腕を使ってテーブルを拭いたり、リモコンを押したりするんだそうです。
 それと、そのご主人が最近病気になり楽観できない病状であること。彼はブルーの縁の眼鏡に異様なこだわりがあってかけ続けていること。猫背であること。
 園山さんはこれらのことを、コーヒーを飲みながら詳しく水沢さんにノンストップで語り、水沢さんは目を丸くしてただただ聞くのみでした。
 初めての独り立ち夜勤を終えて帰宅した水沢さんは、入浴し布団に入って寝ようとしたそのときにやっと、<園山さんは私の緊張をほぐそうとしていろんな話をしてくれたんだ>という思いにいたりました。そして、一夜をともにする、も彼女独特のジョークで、水沢さんが見えないほうを向いてむふふと笑っていたのだろうということにも。
 その2ヵ月後に園山さんは退職したため、結局、水沢さんが園山さんと夜勤を組んだのはその一度限りでした。

 電車の中の水沢さんと園山さんの間には、ドアから次のドアまでの3メートルほどの距離があります。
 そこから園山さんの横顔を改めてよく見て見ると、10年の年を重ねた外見となっていることがわかります。でも、私だって同じ10年分の年を取ったのだから、と水沢さんは思います。そして年齢差が縮まったような感覚を覚えます。10年前の22歳と25歳は看護師としても社会人としても大きな差を感じていましたが。
 それでも、やはり先輩は先輩。
 胸の内でそう水沢さんはつぶやきます。キャリアを重ねるうちに、園山さんがジョークとして言った<一夜をともにする>は、夜勤で組んで仕事をすることの感覚を実にうまく表している、と思うようになりました。
 モニター音などがあり夜間でもシーンと静まりかえるとは言えませんが、それでも夜は夜としての静けさがあり、照明も最低限にするため、スタッフステーションで記録している夜勤者は、お芝居の舞台上にいるかのように照らされます。時には患者さんが急変し、懐中電灯を手に必要な機材を取りに走るなど、少ない人数でさまざまなカバーをしあって対応する夜もあります。
 そんな独特な夜の空間をともに過ごすのですから、たとえ語り合わなかったとしても、そのときに共有した何かがある。そう感じるようになり、一夜をともにする、は言いえて妙だと思うようになりました。さすが先輩だと。
<そういえばご主人はどうなったのだろう>
 凝視し続けていると、つり革につかまっている園山さんの手は顔よりもこの10年が深く刻まれているのが見えてきます。
<もしかして……>
 電車が次の駅に着き、ドアが開きます。
 水沢さんは手すりにつかまって、園山さんを目で追います。
 一旦見失いますが、閉まったドアの窓にはりついて探すと、ホームに降りた園山さんが見つかりました。
<あっ、あれは……>
 園山さんの後ろに、ブルーの縁の眼鏡をかけた猫背の男性が続いており、よく見ると彼は園山さんのウエストにさりげなくうしろから手をまわしています。ご主人に違いありません。
<お元気そうで、よかった>
 水沢さんは、ほっとしながらふたりを見つめます。と、園山さんは水沢さんに視線を合わせ、手をあげながらにこりとしました。
<あっ、眉間に皺が寄ってない!>
 水沢さんは驚いて目を丸くしたのち、あわてて頭を下げてあいさつをすると、電車は動きだし、すぐに園山さんは見えなくなりました。
<あれは、ホームに降りてはじめて気づいたのではない様子だった。車中では気づいている感じではなかったけれど…さすが先輩。やはり先輩だ>

 新しい職場である訪問看護ステーションに初出勤の朝にこんなできごとがあり、水沢さんのやる気に少なからず弾みがついたそうです。

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