Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第141回 イイマツ 2016/3
dotline

 春の平日。午後3時。
 5階建てマンションの3階の角の家のドアチャイムが鳴ります。
住人で看護師の海野より子さん(26歳)が、訪ねてきた山下美樹さん(26歳)と川添ひとみさん(26歳)を中に招き入れます。
彼女らは職場の同僚で仲良し3人組。時間が合う日によく、夕方になる前から海野さん宅で飲み会をしています。
 会の流れはだいたい決まっており、まずはベランダに出て、外を眺めながら缶ビールで乾杯。海野さん宅のベランダからは川や土手、そのそばにある花畑など広々とした景色が見えるのです。
「あー、気持ちいい。あっ、いま、菜の花のかおりがふわっと漂ってきた」
 山下さんが伸びをしながら言います。
「わたし、まだ感知できてなーい。なんで?」
 川添さんが鼻をひくひくさせます。
「ちょうどここから見えない場所に菜の花が咲いてるんだ。でも、畳一畳くらいの菜の花だよ、それだけでもけっこう香るんだね」
「かんぱーい!」
 3人は缶ビールの縁を軽く合わせてからごくごく。
 さて、次は部屋の中に入り持ち寄った料理を広げる時間です。今日は、餃子、太巻き寿司、筑前煮など。家主はバーニャカウダとミネストローネなどを準備しました。
 腰を落ち着かせていよいよ飲み会のはじまりです。

 最近の飲み会での話題は決まっています。3人がイイマツと呼んでいる後輩のキャリア2年目の看護師の話です。途中、別の話題にそれることがあるものの、飲み会を終える21時か22時のラストまでイイマツの話題で持つのです。イイマツ話は恰好の酒の肴なのです。
「新情報、ある?」
 家主の海野さんが二人にたずねます。
「あるよ」
と答えた山下さんがにやりとして、
「昨日の昼休みに、イイマツとたまたまエレベーターで乗り合わせたのよ、で、9号の大磯さんの様子を聞いたの、今日はどう?って」
 入院患者の大磯浩二さん(60歳)は、毎日面会に来る妻と物を投げあったりして派手に喧嘩するか、仲直りして歌を歌ったりしてべたべたするかのどちらかで、同室の患者から「いずれにしても、うるさい」と苦情が出ていたのです。
「イイマツがね、<あっ、今日はブラブラの日のようですが、うるさくはありません!>って言ったから、私が目を丸くしていると、<あのようなご夫婦は、喧嘩するほどタチがいい、という感じですかね>って言ってさ。私が驚いて何も言えないでいると、エレベーターが開いてさ、会釈してさーっと出ていっちゃったの」
 イイマツは3人がつけた渾名で、いわゆる「言いまつがい」を頻発する女性看護師なのです。
「ブラブラは単なる言い間違いとしても、タチがいいは仲がいい、の間違いだし、あのご夫婦の喧嘩はタチが悪いんだからね、いろいろ違うよね」
 と言い終えて山下さんが太巻きを頬張ります。
「なかなかのが出たね。でも、喧嘩するほどタチがいいなんて、患者さんとの会話で言ったらね、コミュニケーションのプラスになるとは思えないよ。でも、指摘して彼女に逆ギレされたら面倒だしね」
 といって川添さんが赤ワインをあおります。
「だよねえ。あの時の大泣きにはまいったもんねえ」
 といって山下さんは日本酒の冷をぐびり。
 イイマツが他病棟から異動してきたばかりの半年前、スタッフステーションである看護師が引継ぎ中に「コアグラが」と言ったらイイマツが「フォアグラが?」と聞き返したのでした。その際に、「フォアグラの訳がないだろ」「ふざけないで」とみなに間髪入れずに抗議され、彼女は「この口がフォアグラと言ってしまっただけです」と言ってその場で泣きだしたのでした。
 以来、病棟では彼女の言い間違いを指摘できない雰囲気となり、やがて野放しの状態となり、イイマツ語録は増える一方となってしまったのです。
 ここに集まった3人だけは、その場に居合わせれば、やさしく指摘するのですが、言い方が優しいからなのか、イイマツは「あっ、ごめんなさい」と言って明るく首をすくめるだけです。
 飲み会の序盤で新情報が出たなら、次はイイマツの批判・分析タイムです。3人は思うことをどんどん言いながらお酒をあおります。
「やっぱりさ、緊張のあまり言い間違えるのとは違うような気がするんだよねえ」
「言葉に対してラフなんだよ。相手に伝えるための言葉を発しているのに、独特な感覚っていうかね」
「ごめんなさい、えへ、って、なめとんのか!」
「なんかふてぶてしいよね。コミュニケーションをコニュミケーションって言ったときも、ステーション内の時が一瞬とまったみたいになったじゃない。そしたらイイマツの奴、コミュニケーションってゆっくりふて腐れたように言い直してさ」
 そして酔いが回ってくると3人は、これまでのイイマツの言いまつがいをひとつずつ言っては笑い転げるのです。
「しかしストーマをトーマスと言ったのは笑ったね」
「漂白剤をキョウハクザイって言ったのもすごいよ」
「まずは全裸になっていただき、を、まずはゼンランになっていただき、っていうのもすごいでしょ。卵かよ」
「タッチパネルをダッチパネルって」
「それ言ったのは、前の師長だよ」
 そうこうしているうちに飲食とおしゃべりにみな満足し、必ず誰かがこう言い出します。
「まっ、イイマツには感謝しなきゃね。奴が出現するまでは、どろどろした愚痴・恨みの話題ばかりで笑わない飲み会だったんだから」
「ほんとだ、感謝だよ」
「今度、イイマツも誘ってやろうか」
「だね」

 と言いつつ、実際には誘ったことがありません。

ページの先頭へ戻る