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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第142回 ふたりの写真 2016/4
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 午後2時。
 青空のもと、桜が満開です。
 特別養護老人ホーム「かがやき」の一室で、ふたりのスタッフが池上セイさん(94歳)の身支度を手伝っています。ベッドサイドに足を垂らして座るセイさんは、ひとりには髪、もうひとりには手を委ねています。
「セイさん、まるで美容サロンですね」
「そうだね、ふたりとも腕がいいからありがたいわ」
「セイさんたら、お上手なんだからあ」
「足の爪もお願い」
「え? 足の爪にも塗るんですか? ソックスを履いてしまうから見えませんけど」
「見えないとこも、きれいにしときたいの、お願い」
「承知しました! 特別な日ですものね」
 今日はセイさんの誕生日で、これから最愛の夫・庄治さん(88歳)がやってくるのです。
「そう、特別な日、うれしくて幸せな日だわね、少し悲しいのだけど」とセイさん。
「どうして悲しいんですか?」
「だって、ひとつ年をとってしまって、あの人と年の差が開いてしまうから。あの人の誕生日がくるまで年の差が6になってしまうんだもの」
 10代でもあるまいし、1歳の違いなんて気にならないじゃないですか、なんてひどいことをもちろんスタッフは言いません。冗談でも言おうものなら、セイさんはヘソを曲げて当分は口をきいてくれなくなることをわかっているのです。

 池上さんご夫妻はとても仲が良く、いわゆるラブラブで、夫の庄治さんは一日置きに面会にやってきます。必ずプレゼントを手にして。
 前に入っていた別の特養に面会していたころ、彼は毎回かならず花を持ってきたそうです。
「あたしたち、花の時代と呼んでいるの」とセイさんはときどきそのころの思い出話をしてくれます。
 その後セイさんの容態が悪くなり病院に入院したときには、花の持ち込みが禁じられていたため、庄治さんは悩んだあげく、花の代わりに野菜を持ってきたそうです。
「だから、野菜の時代。その季節の野菜。かぼちゃとかなすとかね。いちばん素敵だったのはセロリを花束のように持ってきてくれたとき」とセイさん。
 そのあと、ここ「かがやき」に入ってからは、花のときも野菜のときもあります。
「いまはね、ミックスの時代だわね、だから私のベッドのまわりは花畑と野菜畑になってるわけ。素敵でしょ」
 セイさんの今日のベッドまわりには、ミモザ、雪柳、チューリップが花瓶に活けられ、サイドテーブル上の蔓かごの上には山ウドと白たまねぎ。
 庄治さんはいつも中折れ帽にスーツ姿で、片手に杖、片手にプレゼントを持ってやってきます。花や野菜は、片手で持てる控えめな量です。
<年をとってあんなふうにダンディになる人と結婚したい>という庄治さんファンもスタッフの中にいるほど雰囲気のある紳士です。
 セイさんの誕生日に庄治さんは、毎年、花や野菜の代わりに絵の具と画用紙を持ってきます。セイさんを描くのです。水彩の淡い色で、いわさきちひろの作品を連想するような肖像画を。庄治さんはむかし高校の美術の先生だったそうで、描いてもらうのをセイさんは毎年とてもたのしみにしています。
 しかしセイさんは、おとといに庄治さんが面会にきた際に、
「あさっての誕生日には、カメラを持ってきてほしい。そしてふたり並んだ写真を撮ってほしい」
と言いだしたのです。
 たまたまそこに居合わせたセイさんの妹が、
「写真なんかいつでも撮れるんだから、庄治さんに絵を描いてもらったほうがいいじゃない」
と言いましたが、
「やだ、二人並んだ写真を撮ってほしいの」
と返し、庄治さんは恥ずかしいようで、
「写真はちょっと」
と抵抗を示して、セイさんがすねるという、まるで中学生のようなやりとりの末、結局、セイさんの希望が通ったのでした。ふたり並んだ写真撮影をしてからいつものように肖像画を描くことになりました。
 
 身支度ができてまもなくして、庄治さんがやってきました。いつものダンディな装いです。予定どおり、ふたり並んだ写真を撮影しおえると、セイさんが言います。
「次に仰向けになって撮ってほしい」
「え?」
 撮影担当のスタッフが目を丸くします。
「仰向けになると、10年か20年、顔が若返るって、こないだテレビで見たのよ」
といいながら、セイさんはさっさとベッド上に横になります。それも真ん中ではなく左端のほうに。
「じゃ、庄治さんも横になって」
「え?」
 セイさん以外のその場にいた全員が目を丸くします。
「ひとりで撮ってもしょうがないんだから。20年前に戻ったつもりでふたりで撮って。庄治さん、お願い!」
 大事なセイさんに頼まれても、さすがに抵抗があるようで、庄治さんはなかなか承知しません。
 それでも結局、庄治さんは受け入れました。スタッフらに、首をすくめてみせて庄治さんはセイさんの右隣に横になります。
 そのふたりのバストアップを撮るために、カメラを持ったスタッフはベッド上の隙間に足を入れて立ち撮影しました。

 できあがった写真は、それはそれは不思議な雰囲気になったそうです。一見では白い壁をバックに立っているようにも見えるのですが、やはり違う。撮影者は、レンズごしにふたりを見たときに<これでもし眼を閉じていたら心中したふたりみたいだ>と内心思ったくらい独特なのです。
 その写真を見た誰かが「芸術的だ」と言い、ふたりの許可を得て、大きくプリントした写真が「かがやき」の廊下に飾られました。それがさらに面会の人の口コミで広まり、最近では写真を見る目的で訪れる人も出てきているそうです。

 池上さんご夫妻は、60代になってから一緒になった再婚同士で、一枚もふたりで撮った写真がないからという、セイさんのかわいらしい思いが発端のエピソードでした。そのため、いま、施設全体がなんとなく和やかないい雰囲気なのだとか。

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