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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第143回 おはようおやすみ日曜日 2016/5
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 あと15分ほどで日曜日です。
 東京のど真ん中に立つP総合病院。
 その個室病室に、P病院の職員で消化器科の医師・市川雅助さん(44歳)が寝間着姿でベッドの端に足を垂らして座り、ビルや高速道路が見える窓の外を眺めています。昨日の昼休みに倒れて緊急入院したのです。過労のほかに消化器疾患が疑われ、週明けに各種検査を受けることになっています。
 この病室を含む第五病棟のスタッフステーションでは、準夜勤者から引き継ぎを受けた看護師の桜井愛さん(22歳)が、担当患者らの0時の巡視の準備をしています。
 彼女は、個室から周っていくか、その逆にするか悩んでいます。実は、ある一件があり、市川さんの病室を訪ねるのが彼女はとても気が重いのです。

 一週間前。
 日勤だった桜井さんが同僚の先輩たちとナース休憩室で、食後の昼休み休憩をとっていると、そこへ市川さんがドアを開けてにこやかな顔を出しました。
「あれ? いっぱい? 詰めれば大丈夫っしょ。ささっ、ちょっと詰めてー」
 といってみんなを詰めさせ、彼も長椅子に座り、
「♪加算、加算、加算、加算を大切に♪ って、みんな、元歌を知らないんだろうなあ。昔、CMで♪花壇、花壇、花壇、お花を大切に♪っていうのがあってさ。師長なら知ってると思うんだけどなあ、そういえば、今日、師長の姿が見えないけど」
「今日は出張で不在です。先生、今日もご機嫌さんじゃないですか」
 市川さんの隣に座るキャリア10年目のナースが応えました。
 市川さんは、冗談やダジャレを言ったり鼻歌を歌ったりと明るく、看護師とフレンドリーに接し、仕事もできるため看護師のあいだで人気の医師です。
 桜井さんは、そんな彼のノリについてはいけないと感じていましたが、だからといって不快な存在ではありませんでした。
 しかし、市川さんになにかと声をかけられるようになってから、大の苦手となってしまったのです。
 休憩室の奥で身を固くしてうつむいている桜井さんを見つけて、市川さんはいいます。
「おっ、ひよこ! しけた顔しちゃってさあ。休憩時間にはアハハって笑ったほうが得だぞ」
 桜井さんは、まず、ひよこ、と言われるのが嫌なのです。小さいころから何年かに一度、ひよこに似てると言われるのですが、そのことにまつわる悪い思い出ばかりです。でも、桜井さんは顔をあげて口角をあげて、一応市川さんの言葉に応えます。
「いまのひよこ、いやいや笑顔になってみましたって感じだなあ。そうだ、今度、みんなで飲みに行くか、ひよこも来なきゃだめだぞ、大事な飲みニケーションなんだから」
 桜井さんは飲みに誘われるのも嫌です。への字口になってしまいます。
 桜井さんにとっては全員先輩であるナースたちが、彼女の様子を見て顔を見合わせ、そのうちの一人が市川さんに、
「彼女は第五病棟にまだ慣れてないし、ばりばりの平成生まれで、先生とはジェネレーションギャップ大ありなんですからね」
「えー、接点ないってこと?」
 市川さんは声のトーンを下げて言ったのでした。
 その翌日、桜井さんは、勤務後に着替えて帰る師長をまちぶせて訴えたのです。パワハラ発言をされて苦痛だから市川さんにナース休憩室への入室を禁じてほしい、と。もう我慢できない、という思いでした。
 その翌日から、市川さんはぴたりと休憩室にこなくなりました。そして、彼は口数も減り、なんとなく元気がなくなったのです。
 その様子を見て桜井さんは、胸が痛みました。そして、どうして自分はあんなことを師長に訴えてしまったのだろう、と後悔がつのりはじめたのです。
 桜井さんは、別の病棟から異動してきてまだ三ヵ月です。看護師としてのキャリアが一年と少しだけの上に、診療科の違う病棟に移ってきたため、まったく余裕がありません。早く仕事を覚えなければという焦りではちきれそうです。なので、市川さんに声をかけられるのは負担でしかなかったのです。それは自身の問題であり、衝動的な行動は熟慮に欠けていた、と思えてきました。
 また、市川さんが休憩室にこなくなったのは、桜井さんの訴えによるものだと知ったらしい、第五病棟のスタッフたちは、桜井さんに冷たくあたるようになっていました。
 それについて、市川さんが「桜井を責めるな」とみなに言ったということも桜井さんの耳に届いていました。
 そんな矢先に市川さんが倒れたのです。
 桜井さんは謝りたい気持ちではあるものの、なんと言えばいいのかわかりません。まともに会話したこともないのです。
 彼女は懐中電灯を持って各病室をまわり、最後に市川さんの病室の前にきました。室内灯の灯りが廊下にもれており、起きているだろうことがわかります。それでも、寝ているかもしれず、ノックをせずにそろりとドアを開け、入室します。
 すると、窓の外を向いていた市川さんが振り返り、目があいます。
 桜井さんは棒立ちになってうつむき、ぼそぼそと「あの、ごめんなさい」と言って一歩前に出ました。「悪いこと、してしま」のところで涙がこみあげてきてしまい、言葉を詰まらせます。
「ひよ、ではなく桜井さん、オレ、あなたに感謝してるんだからね。いろんな意味で、ギアを入れ替える時期にきていたんだから。そのきっかけを作ってくれた。ありがとね。泣くことないから。とにかくやってれば仕事は自然に覚えるから、大丈夫だからね。状態、特に変わりなし、おやすみ」
 そういうと彼はふたたび窓の外に向きなおり、鼻歌を歌い始めます。
 桜井さんは、その背中に御辞儀をしおえてドアのほうへと一歩踏み出したところで動作をとめて、いいます。
「おはようおやすみ日曜日、ですね」
「え? こんな古い曲、なんで知ってる? この歌、オレの親父がよくギター弾きながら歌うのよ」
 市川さんは鼻歌ではなく、歌詞をつけて歌い出します。
「祖父が大好きでよく歌ってますから、ギター弾きながら」
「ほんと? なによ、接点、あるじゃない」
 ちょうど0時になり、二人は小声でその歌を歌ったそうです。

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