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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第146回 花束 2016/8
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 午後。
 某病院の1階の廊下。
 年配の女性を乗せた車いすを若いナースが押しながら移動しています。
 看護師は磯野ひばりさん(23歳)。入院患者の金澤弓子さん(58歳)を、リハビリ室に迎えに行き、病室にお連れするところです。
 磯野さんは少し気が急いています。業務が立て込んでいるからです。いつもは、金澤さんのリハビリ室への送迎を看護助手さんに頼んでいるのですが、今日はそれができずに急きょ、磯野さんが対応することになりました。それにより業務が計画通りに進まず、一時でも早く病棟に戻りたいため、焦っているのです。ある医師への指示の確認が済んでいないこととか、リーダーに報告すべきことやあることとか、もろもろの気がかりが次々と頭の中に浮かんできます。
 だからといって慌ててしまっては、金澤さんの安全な移送にリスクが生じてしまいます。1階は、外来エリアのほかに売店やカフェ、ATM、理容室などがあるため、人の多いフロアです。子どもが飛び出してきたり、物が落ちていることだってあります。注意しなければなりません。
 また、急いでいることを金澤さんが敏感に感じ取り、遠慮したり、残念に思ったりしてしまっては、リハビリの意欲低下にもつながりかねません。そのため、急がずに丁寧に、と意識して車いすを押しています。
それでも、胸の内では急いでいます。

「あの、ちょっと…」
 金澤さんの声です。
「はい。どうなさいました?」
 磯野さんは車いすを止めて、金澤さんの顔をのぞきこみます。具合が悪いわけではないようです。
「あれ、なあに?」
 金澤さんの視線の先には、自動販売機があります。
「あっ、あれは、ブリザーブドフラワーの自動販売機です。ちょっとそばに寄りましょうか」
 ブリザーブドフラワーとは生花を特殊加工して、脱水・着色したものです。
 <時間をとられるからといって嫌な顔をしてはだめ、穏やかに丁寧に接するんだ>
 磯野さんはそう自分に言い聞かせて、金澤さんの乗った車いすを自販機のそばに移動させます。
「ああ、なるほど、そうなのねえ」
 と言いながら自販機のそばに貼られたポスターの文面を読み、金澤さんはうなずき、
「お見舞いのお花を飾っている人を見かけないなあ、と思っていたのよ。やっとわかったわ。普段、ここを通らないから、この自販機もポスターも初めて見たわ」
 この病院では、感染対策の一環として生花のお見舞いは禁止しています。その代わりにと、この自販機を設置しているのです。
 磯野さんは、少しでも時間を短縮しようと、皆が通るのとは少し違うエレベーターまでのルートを選んだのでした。そんな自分が恨めしくなる磯野さんです。
「そうかあ、じゃ、リハビリ頑張って、早く退院しなきゃ」
 といって金澤さんは笑顔になります。
「ですね。退院されたら、みなさん、金澤さんにお見舞いのお花をたくさんお持ちになるんじゃないでしょうか。たのしみですね。では、いきましょうか」
 磯田さんはふたたび車いすを押しはじめます。

 エレベーター前につきました。これから乗り込む人たちがずらりと待っています。これでは乗れないかもしれない、と磯田さんは考え、穴場のエレベーターへと向かいます。
 外来が終わりシーンとしたエリアを進みます。目指すエレベーターの前には誰もいません。
金澤さんがいいます。
「あのね」
「はい」
 車いすをとめて、磯田さんは金澤さんの顔をのぞきこみます。
「わたしね、リハビリ頑張ろうって思うのは、花束をもらいたいからではなくて、あげたいと思ったからなの。お友達に花束をあげたいのよ。お誕生日とか何かのお祝いに、わたし、ずっとみんなに花を贈ってきたから。入院中にその日がきたなら、院内のお花屋さんで花束買って渡そうかなって考えていたの。でも、それは無理だってわかったから、退院していつものお花屋さんで花束買うのがいちばんいいって思って。花束って、もらうのもうれしいけれど、贈るのはもっともっとうれしいからね、私の場合。ごめんね、忙しいときにつまんない話をして。急ぎましょう」
「あっ、はい」
 再び車椅子を押しながら、磯田さんは動揺しました。
 まずは、急いでいることが金澤さんに伝わっていたことにです。
 それと、自分が花束について“もらう”ことにしか考えが及ばなかったことにも動揺しました。
 実は磯田さんは、この病院で生花のお見舞い品が禁止であることにほっとしていた部分がありました。看護学生時代に実習に入っていた病院では禁止されておらず、患者さんたちのベッドサイドには花が飾られており、それを横目に彼女は、
<わたしが確実に花束をもらうのはたぶん定年退職のときだろうな>
 と思ったのでした。ひがむような気持ちではなく、うっすらと寂しい、シーンとした感覚になったのです。

 磯田さんは小さいときに両親が亡くなり、中学までは祖母に育ててもらい、その後は一人暮らしになりました。看護師になってからは、それまでの友達とも休日が合わない関係で、オフタイムをひとりで行動することが多くなっています。友達がいないわけではありませんが、これまでに花束をもらったことはありませんでした。
 磯田さんは、金澤さんの<贈るのはもっとうれしいからね>という言葉を思い出し、もらうだけでなく、誰かに花束をあげたことも一度もないことに気づき、自分がとても味気なく薄っぺらな人間に思えてきて情けなくなってきます。
 彼女は日々、淡々と仕事にとり組んでいます。微笑むことはありますが、休憩室で大きく口をあけて笑うことはなく、怒ったこともありません。
 そんな磯田さんですが、エレベーターが空き、車いすをなかに押し入れると、涙がぼろぼろこぼれてきてしまい、車いすを固定すると金澤さんに見えないようにあわててハンカチでぬぐいます。しかし、涙がとまりません。
「あら……」振り向いた金澤さんが思わず言います。「どうしたの?」
「申し訳ございません。患者さんの前で、こんなことになってしまって。わたし、花束ってもらったことがないからか、あげることなんて微塵も発想になくて、すごく恥ずかしくなって」
 正直に言葉が出てきました。
 すると、金澤さんはマヒのない右手で磯野さんの手の甲や前腕や上腕をさすりながら、
「なに、どうしたの。わたしもね、花束は贈るのが素敵だってわかってきたのは、40代くらいからよ。あなたはまだ若いし素直だし、大丈夫。これからいっぱい花をもらうわよ、これからいっぱい。患者って励まされていたわってもらうばかりでしょ。だから、あなたを励ますようなことを言えてうれしい」
 と言いながら、彼女も涙を浮かべたそうです。

 磯田さんは、誰かに花束を贈る女性になりたいと考えるようになると同時に、休憩室で笑えるようになったとのことです。

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