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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第147回 アイドルファン 2016/9
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 午後の某マンション。
エレベーターのドアが開き熊田美奈子さん(25歳)があらわれます。立ち止まり、丁寧にひと呼吸するとふたたび通路を歩きだします。
 彼女は土田愛子さん(78歳)をこれから訪ねるところです。土田さんは半年前に訪問看護師としてスタートした熊田さんがはじめて担当した方です。
 土田さんと孫娘の亮子さん(19歳)と熊田さんの三人があるアイドルグループのファンだとわかってからは、その話題でいつも盛り上がりました。
 三人ともお気に入りのメンバー、つまり推しメンが違うという点もよかったのか、まるで推しメンそれぞれの妻同士のような感覚での会話が弾むのでした。自分の推しメンを夫のように謙遜し、相手の押しメンを立てるのです。
「A君主演のドラマ、やっぱり視聴率よかったみたいね、さすが」
「B君の司会ぶり、お笑い芸人さんのあいだですごく評価高いんだってね、頭の回転が相当速いよね」
「結局、Cちゃんがいちばんのムードメーカーなんだよね」
 などと言い合い、褒められた側は「まあね」「ありがと」などと満足気に応えるのです。
 そして、新曲の振り付けだの衣装だのについてや、放送されたばかりのバラエティでのメンバー同士のやりとりについて、あるいはどんなCMがそれぞれに合っているか、などなど話題がなくなることはありませんでした。

 しかし、ひと月ほど前から場の雰囲気が変わりはじめました。亮子さんは、熊田さんへの態度がどことなく硬くなり、アイドルの話をしなくなったのです。それにつられるように愛子さんもアイドルの話をしなくなりました。また、熊田さんとあいさつや必要なやりとりが済むと、亮子さんの笑顔はすぐ消えるのでした。
 そのきっかけについて熊田さんは思い当たることがありました。
 それは、いつものように訪ねたある日のことでした。亮子さんは愛子さんの左足を一生懸命にマッサージしていました。
「急に浮腫んで、痛みもあってね」
 と言いながら、医学部志願の受験生である亮子さんは、手を動かしながら得意げに熊田さんに報告しました。
 熊田さんは、その状況を見てすぐさま、
「あっ、ごめんなさい、マッサージの手を止めてください!」
 と声をかけました。
 片足のみの疼痛を伴う急激な浮腫は、深部静脈血栓症が疑われ、その状態でマッサージや運動をすると肺や脳の塞栓症を招くおそれがあるからです。
 熊田さんはすぐに主治医に状態をレポートしました。そして愛子さんは即検査入院となり、深部静脈血栓症の診断がつき治療が行われたのです。
「熊田さんのおかげで命拾いした。気づいてくれてよかった」
 とご本人と亮子さんは言ってくれました。
「いや、看護師として当然の対応ですから」
 そう答えた熊田さんに対してなにか思うところがあったのか、あるいはその前段の亮子さんのマッサージを制止したときのなにかが気に入らなかったのか、愛子さんが病院から戻ってきて以来、亮子さんはたまに冷たい視線を熊田さんに向けるようになりました。かといって、極端に熊田さんを嫌うようなふるまいや言動があるわけではないため、それについて訳を問うほどではなく、そのまま時が過ぎました。

 そして、先週の訪問の日に、ちょうど亮子さんがキッチンに行ったタイミングに愛子さんが熊田さんに、
「どう、チケット当たった?」
と聞いたのです。アイドルのライブコンサートに当たったかどうか、という質問です。
 亮子さんと熊田さんはファンクラブに入っており、コンサートがあるたびに申し込んでいましたが二人とも一度も当たったことがありませんでした。ちょうど次のコンサートの当否の発表時期になっていました。
 実は、熊田さんははじめて当たっていたのです。
 愛子さんからの質問を受け、熊田さんは所属している訪問看護ステーションの所長の言葉を思い出しました。
「あくまでも看護師としてかかわっているのだからね、なんでも話すのがいい関係というわけではないのだから。病院では自然に距離を取ることができても、訪問看護はでは難しい場合があります」
 ファンであることを、本当は最初から言うべきではなかったのではないだろうか。利用者さんに好かれたい一心で私はなんでも話してしまったのではないだろうか。しかし、熊田さんは正直に言いました。
「実は当たったんです。亮子さんは、どうだったんでしょう」
 亮子さんが外れていたとしたら、熊田さんだけ当たったことをおもしろく思わない可能性があるかもしれないものの、外れたと噓を言うことは誠実ではないと熊田さんは思ったのです。
「亮子はね、当たったとはいわないからたぶん外れたんだと思う。あの子、最近、ちょっと不安定でね、予備校での受験勉強も思うように行っていないのかもしれないけど、そういうことを、たぶん、誰にも悟られたくないのよ。なんか、ごめんなさいね」
「あっ、いえ。あの、土田さんは、最近、亮子さんと曲を聴いたりDVDご覧になったりしてないんですか?」
 熊田さんは疑問に思っていたことをたずねました。
「私? 亮子が楽しくないなら私も楽しくないの。亮子が聴きたがらないから聴いてないの。亮子にはそうは言ってないけどね。単に、孫が可愛くて仕方ないおばあさんなのよ」
 熊田さんは驚きました。愛子さんは孫娘にあわせてファンをやっていたとは気付いていなかったのです。わたし、まだまだだな、と熊田さんは思いました。

 そして今日、一週間ぶりに土田さんを訪問するにあたり、熊田さんはひとつの決意をしてきました。
 <意識としても態度としても、一歩引いた位置取りで!>
 あまりにも当然のことであり、決意というのは大げさかもしれませんが、訪問看護師としてはまだ新人の熊田さんにとって、利用者さんやそのご家族に介入するスタンスを確立するための貴重な一歩です。病院とは違い、利用者さんの空間に入ってゆき必要なケアをするため、ともすればその空間に飲みこまれてしまい、看護師としての役割を充分に果たせなくなってしまいます。
 玄関ドアを開けてくれた亮子さんに、熊田さんは背筋を伸ばし「こんにちは!」と明るくあいさつし、廊下を進みながら声をかけます。
「この度のBの熱愛報道では、みなさまにご迷惑おかけしています! おばあ様の食欲はいかがですか?」
 一歩引いた立ち位置を意識してみると、熊田さんはさばさばとアイドルの話題にふれることができました。Bは熊田さんの押しメンで、昨日、写真誌に女性と一緒にいる写真が掲載され話題になっているのです。
 亮子さんは、熊田さんのさばさばした雰囲気がうつったかのように、
「熱愛報道の件はお互い様ですから、どうかお気になさらずに! おばあちゃんは、今朝、結構食べられましたよ。それとね、実は私、このところ、違うグループにちょっと浮気してたんだ。だからなんとなく熊田さんと会うと気まずかったんです。でも、彼らのファンに戻りましたから」
とからっとした口調で言いました。
 違うグループに浮気、というのは噓かもしれない。でも、言葉通りに受け取るのが大事かも、と熊田さんは思いました。
 愛子さんは、受験勉強が大変なのに自分の世話をしてくれている孫娘を思い、亮子さんは受験のことやいろいろで心が揺れる自分を見せて祖母を心配させたくないと思う。当然のことながら、二人には口は出せないこと、出したくないことがある。――看護師の熊田さんに対しても。

 熊田さんは、二人をそんなふうにも見ることができて冷静になったそうです。

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