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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第148回 はりあい 2016/10
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 東京の下町。
 穏やかな晴天の日曜の午後です。
 商店街から少し離れた住宅街の路地を、カップルが肩を並べて歩いています。
 男性が田上大(マサル)さん、28歳。作業療法士です。
 女性が片平葉子さん、30歳。看護師です。
 彼はスーツ、彼女はワンピースという、いわゆるきちんとした服装です。そして田上さんは、お土産のお菓子らしい紙袋を手にさげています。
 互いの横顔をちらちら見ながら小声で話す二人の様子は、ラブラブムードでいっぱいです。しかしときおり顔を曇らせます。
 田上さんが言います。
「広辞苑でさ、はりあい、って引いてみたんだ」
「あっ、マー君らしい」
 と、片平さんが即座に返します。
「はりあいには、一つ目の<なぐりあい>、二つ目の<せりあうこと>、って意味があるんだけど、海原さんの口癖のほうのはりあいの意味は、三つ目の<力を尽くすかいがあると感ずる気持ち>であって、作業療法士にとって、利用者さんに<はりあいがない>って言われることは、実に厳しいわけで」
「逆に、やりがいがあるっていうか」
「まあ、そうなんだけど。海原さんは、初回訪問からいままで、<結婚式でもなければはりあいがない>って言わなかった日はないと思うんだよ」
 松風訪問看護ステーションに属して訪問リハビリの仕事をしている田上さんは、脳梗塞の後遺症として右半身に軽いマヒのある海原マサさん(81歳)を7ヵ月前から訪問するようになりました。海原さんは自宅でwebデザインの仕事をしている孫娘の美樹さんと二人暮らしです。
 今日の田上さんは、個人的な用事で海原さんを訪ねるところです。実は、同行の片平葉子さんと結婚することになり、その報告をしようと考えているのです。

 7ヵ月前、田上さんが海原マサさんをはじめて訪問した日。田上さんが帰り支度をはじめたときに、海原さんはニヤリとしてこう言ったのでした。
「あなたに、ぴったりの女性がいますよ、あのね」
「おばあちゃん! 今日、お目にかかったばかりなんだからさ」
と美樹さんがにらむと、海原さんは首を横に振って、
「うんにゃ! この、縁結びのマサさんと言われた私が、ものすごくピンときちゃったんだから」
といって、田上さんの相手として思いついたという女性の説明をはじめたのでした。
「3年前に亡くなったうちのおじいさんのところに訪問看護にきてくれていた人。礼儀正しくて、いつも、挨拶の頭を下げたあとににこっとして、するとえくぼができてかわいいの。本当に気立てのいい看護師さん。独身だって言ってましたよ。今日、あんたを見ていたら何故だかあの人をぽんと思い出してね。きっと強い縁があるんだよ。えーと、名前は、えーと、誰っていったか」
 といってマサさんは美樹さんの顔を見ます。
「うーん、私も名前が出てこない。時々、道でばったり会うの。彼女、いまも、小さい顔にショートボブがすごく似合っててね。すみれ訪問看護ステーションの、えーと、名前は」
 立ち上がろうとする田上さんの袖をマサさんはつかんで、
「あんた、彼女はいるのか?」
「……いいえ」
 こういう時には笑顔を返すのみにする田上さんですが、自分をじっと見つめて問うマサさんには何故かそれができませんでした。
「あんたは、私がいま言った人と、結婚するんだよ、絶対に。そして私を結婚式に呼ぶんだ」
 マサさんはそう断言したのでした。
 彼はマサさんの話を気にするつもりはありませんでした。初訪問の田上さんに対してけん制するような気持ちによる言動かもしれないとも考えました。
 マサさん宅で予定よりも時間がかかってしまったため、田上さんは次の訪問先へと急ぐことになりました。
 その移動の際に、彼は一人の女性と運命の出会いをしたのです。
 路地の曲がり角で、自転車同士でぶつかりそうになりました。すみれ訪問看護ステーションと名前が書かれた自転車に乗っていたその女性は、ショートボブがよく似合う顔の小さい人で、笑うと頬にえくぼが現れる可憐な女性でした。
 田上さんは彼女にひと目ぼれしたのです。
 そしてとんとん拍子につきあうことになり、7ヵ月の交際を経て、数日前に彼女にプロポーズをしました。
 田上さんは訪問初日にマサさんに言われたことについて、実は、片平さんにずっと話していませんでした。マサさんの言葉に暗示にかかって片平さんを好きになったように思われたくないからでした。
 しかし、言わないまま結婚するのはフェアではない気がして、プロポーズの際に話したのです。
 すると片平さんは言いました。
「二人で御礼にいこう! 縁を引き寄せてくれた恩人なんだから。海原さんの訪問時間が少し伸びたから、私たち、あのとき路地の曲がり角でぶつかりそうになることができたんだもの。でもね……私、海原さんご主人の訪問には一度も行ったことないんだ、だから海原さんが思い浮かべた人はね、私の同僚の馬場さんのことだわ」
 馬場さんもショートボブヘアで笑うとえくぼができるのだということが判明しました。

 今日、二人で結婚の報告をした際に、田上さんの相手が馬場さんではないことがわかったなら、海原さんはどう思うのか。もしかして残念に思って、馬場さんでなければだめだ、などと言いだすのではないか…。
 そのことを思い二人は少し気が重いのです。しかし、縁を結んでくれた方として感謝の気持ちはしっかり伝えたい。

 まず、田上さんのみ海原さんの御宅に入ります。片平さんは外で待ちます。
 田上さんが正座して海原さんに言います。
「お訪ねしたときはいつも、結婚式でもなければ、はりあいがないっておっしゃっていますね。実はぼく、結婚することになりました。結婚式に来てほしいです。お願いします!」
「え? ほんと?」
 海原さんの問いにしっかとうなずいた田上さんは、片平さんとの出会いのいきさつを詳しく説明し、外で待っていた片平さんも中に呼び、海原さんに紹介します。
 目を丸くしていた海原さんは、座っていたソファにふわりと仰向けに寝ると、昼寝に使っていたらしいタオルケットを頭まですっぽりかぶってしまいます。
  田上さんと片平さんは曇った顔を見合わせます。
 そこへ、美樹さんがお盆にお茶を載せてやってきます。
「あら、おばあちゃん、どうしたの? おばあちゃん! お客様の前で。具合悪いの?」
「はりあいが、なくなったんだよ」
 タオルケットをかぶったままぼそぼそと海原さんが言いました。
 田上さんと片平さんの表情がさらに硬くなります。
 続けて海原さんが、
「いつも、田上さんに、結婚しないの? って聞くと、田上さん、目が泳いでしまってどぎまぎするからおもしろくて、それが楽しみではりあいだったのに、もうそれはないってことだね。でもね」
 とまでいうとタオルケットを顔からはずし、満面の笑みになり、
「うれしい! 結婚式、いつぶりに呼ばれたんだろう。いやあ、うれしい。なんてうれしいんだろう。田上さん、ありがとね。そしておめでとね」

 結局、田上さんの相手が馬場さんではなく片平さんであったことに対しては、まったく気になってなかったようで、報告に行った二人は胸を撫で下ろしたとのことです。

 その後、海原マサさんは結婚式の出席に向けてリハビリにとても積極的になったそうです。

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