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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第149回 洗濯評論家 2016/11
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 平日の午前中。小春日和です。
 一軒の古い民家の小さな庭に、数名の大人たちが座ったり立ったりしています。場に少々緊張ムードがただよっています。
 彼らの中心にいるのは、家主の菅澤セツさん(82歳)。遠い目をして椅子に座っています。その背後には作業療法士の松枝良治さん(29歳)が立膝をつき、セツさんの両肩を支えています。セツさんの左側には看護師の津島優美さん(28歳)がしゃがんでいます。
 縁側にかけているセツさんの娘、ミドリさんが、スマホ画面を指でタッチしながら言います。
「母さん、あたしが持ってきたやつでいいじゃない。長引くと皆さんにご迷惑になるでしょ」
 セツさんは返事をしません。彼女のかたわらには金だらい、洗濯板、洗濯用固形石鹸などが置かれています。
 今日は、セツさんが強く希望した「洗濯」の日です。
 セツさんは洗濯の話が大好きで、汚れの種類や汚れ方に応じてどう洗濯するのか、手洗いと洗濯機の上手な併用、干す技術について、取りこむタイミング、畳み方などなど、訪問スタッフによくレクチャーするので、誰ともなく彼女を「洗濯評論家」と呼ぶようになりました。ミドリさんが「洗濯評論家・菅澤セツ」という名刺を作ってセツさんにプレゼントしたのがいまから一年前でした。
 今日のきっかけとなったのは、看護師の津島さんの言葉でした。
「秋の日射しを浴びながら、ご自分でお洗濯しませんか?」
「え? この身体で? できるの?」
「みんなでお手伝いします」
 その翌日、セツさんは目を輝かせて作業療法士の松枝さんに言ったのです。
「洗濯がしたいの。洗濯板を使った洗濯がどんなものなのか、見てもらいたいし」

 セツさんには脳卒中による左半身マヒがありますが、そのリハビリに消極的になっている状態です。身体を動かしたくなるきっかけになればと、花見やピクニック、散歩など外へと誘ってもノーばかり。そんなセツさんの「したい」発言を逃すまいとみなで準備を進めてきました。
 そして数日前にセツさんが「どうせ洗濯するなら、孫の亮太がサッカーの練習で履いた靴下がいい」と言い出し、いま、その靴下を待っている状態です。
 縁側に座るミドリさんはセツさんの末の娘で、ここから車で10分のところに、夫と息子の亮太君(15歳)と暮らしています。靴下の件を了承した亮太君は、今日は中学校の創立記念日で休みのため、朝練で使った靴下を9時ごろに自転車でここに届けることになっているのですが、10時をまわったいまも姿を見せず、連絡もとれません。
「もうさ、これで我慢してよ。ちょうどさ、わりと汚れているし」
 といいながらミドリさんが、白い靴下をつまんでセツさんのほうに差出します。彼女は、さきほどここから遠くない水道工事関係の仕事に就いている夫をたずねて、急遽その場で靴下を脱がせて回収してきたのです。
 セツさんはまたも返事をせず、生垣で囲まれた庭の出入口のほうを見ています。
 ミドリさんはあきれたように眉をあげ、夫の靴下を縁側において、ため息をひとつつくと言います。
「亮太は反抗期でさ、なにを考えているのか、よくわかんないのね。でもあの子、根は優しいし、おじいちゃん、おばあちゃん大好きっ子だからね、もしかして、おじいちゃんのときのことを思い出してさ、悲しいことの兆しなんじゃないかって、こわくなったのかもよ、来るのが」
 セツさんの夫は、3年前の亡くなる直前、急に大工仕事がしたいと言い出し、孫の亮太君の椅子と本棚を作りたいと亮太君に材料の調達をさせたのでした。寝たきりだったのに、その日だけは起きだして噓のように身体を動かして椅子と本棚を完成させ、その一週間後に亡くなったのです。
 セツさんは看護師の津島さんにいいます。
「悪いけど、もう少し待ってくれる?」
「はい」
 と笑顔で応えると津島さんは、作業療法士の枝松さんの複雑な笑みをちらと見ます。
 実は今回の件で、津島さんが属する施設と枝松さんの施設とで小さな摩擦が起きているのです。
 津島さんがセツさん本人に洗濯の件を提案する前に、ケアチームのメンバーに提案・相談するべきだったのでは、と枝松さんの施設側から津島さんの訪問看護ステーションに連絡が入ったのです。それを受けて津島さんの上司は、「わざわざ施設に言ってこないで、その場で津島に一言いえば済むことじゃないか」と憤慨し、その旨を枝松さんの上司にメールで返したのでした。
 そんなこともあり、津島さん、枝松さんそれぞれの上司もことの成り行きを見届けにやってきています。
 小さな庭にいる人たちの視線はさまざまな方向に向けられ、セツさんが庭に出て5分とたっていないのに、長い時間が経過したような重い雰囲気がただよっています。
 と、生け垣越しに自転車のブレーキ音とストッパーをかけるガチャンという音がして、亮太君があらわれます。
「あっ、どうも。ばあちゃん、おそくなってごめん、これ」
 亮太君は知らない大人たちにぺこりと頭をさげると、バッグからごそごそと取り出したものをセツさんに差し出します。コンビニの袋です。
 それをミドリさんが受け取ってその中を見て「なに、これ。うわっ」と声をあげます。使用済の汚れた靴下が何足も入っています。
「いっぱいあったほうがいいかなと思って」と亮太君。「みんなに頼んで集めてきたんだよ。だから遅くなっちゃって」
「おばあちゃんは、亮太のが洗いたいのよ! 自分の、どれ?」
 ミドリさんが袋を亮太君に戻します。
「え? わかんないよ」
 サッカー部のお揃いの靴下のため、どれがどれだか、わかりません。
 しかし場の雰囲気から、早く事が進めないとまずいのかもしれない、と亮太君は考え、
「じゃ、ばあちゃん、僕、目をつぶってこの中のを選ぶから、それを僕のだと思ってもらっていい? あっ、そうだ、いま履いている靴下を洗ってもらえばいいのか」
「それは、みんなで待っていた意味がない感じがしちゃう気がする」とミドリさん。
 みなその言葉にうなずきます。
 すると「いいや、それでいい」とセツさん。「亮太がいま履いているのをわたしが見本として洗濯して、袋に入ったほうの靴下は、みんなに順に洗ってもらって、洗濯評論家 菅澤セツが一人ひとりにアドバイスいたします」
 まず、セツさんのお手本です。枝松さんに背後からしっかり抱えられ、左手の動作を津島さんに助けられて行っているうちに、セツさんは「二人羽織みたいだ」と言って笑い出し、それにつられてみなも笑い出し、場の空気が一気に和やかになります。
 そしてセツさんは、みなのぎこちない洗濯に厳しいダメだしをするのでした。その一言一言がまたみなの笑いを誘います。ミドリさんは腹を抱えて笑いました。
 セツさんは亮太君に言いました。
「大丈夫だ。じいちゃんみたいにはならないから。洗濯がちゃんとできるようになるまでリハビリがんばろうと思っているんだから」
 それを聞いて安心したのか、亮太君は号泣しました。

 この「洗濯」が無事終了してベッドに戻った時、セツさんはしみじみと「あーあ、疲れたけど、おもしろくて、命の洗濯になったよ」と言ったそうです。

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