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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第151回 ミラーマン 2017/1
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 青空のひろがる午前中です。
 某マンションの一室で、訪問看護師の桜井晴美さん(45歳)が帰り支度をはじめています。時間が押してしまい、次の訪問先までの道路状況のことを気にしながら少々急いでいます。
 部屋では、ベッド上に中村きい子さん(81歳)が仰臥位で休んでいます。
 その傍らに夫の中村陽三さん(81歳)が座り、きい子さんの手の甲をさすりながら、
「さっきも言いましたけど、左右の頬がつやっつやで、眉もすっきりしたカーブに整ってて、いつものように素敵ですよう」
「…………」
「うーん、今日はなんか、いつもと違うなあ、どうしたのかなあ」
 脳卒中による右半身マヒと認知症のある中村きい子さんを、陽三さんが中心となって介護をしています。
 きい子さんは、週に一度、介護スタッフのサポートを受けて入浴していますが、後頭部に発赤ができやすい上に汚れた手で頭皮を触る癖もあり、頭皮の状態確認をかねて桜井さんが訪問の際にベッド上シャンプーをしています。きい子さんは、全裸になる上に二人に同時に身体を洗われる入浴が嫌いなようですが、桜井さんのシャンプーは、ベッドに寝たままで身体が楽だし、裸にならなくていいし、洗うのが頭だけのため気忙しい感じがしないのか、いつも穏やかにそして気持ちよさそうにしています。
 ベッド上シャンプー後の機嫌のいいときに、つづいてお顔のケアを行うのはどうか、という桜井さんの提案で、シャンプー後の整髪のあとに顔そりや眉の整え、そして血色としてチークを入れたりリップを塗ったりも行うようになりました。
 このお顔ケアの一回目が終わったときに、陽三さんはきい子さんに鏡を持たせようとしました。きい子さんは70代に入ったころに写真嫌いになり、そののち大の鏡嫌いになり、長らく鏡を見ていなかったそうですが、お顔ケアによってとても彼女らしくきれいになったので、陽三さんは見てもらいたくなったようです。
 しかし、きい子さんは烈火のごとく怒ったのでした。とても興奮して、その手鏡を窓に投げつけて割ってしまいました。
 愛妻家の陽三さんはそのときに、
「ごめん、ごめん! もう二度と鏡なんか持たせないからね。そうだ、これからは僕が鏡がわりになるよ。そうする。きい子さんがどんな表情か、僕が口で説明するからね。あっ、そういえば、純が子どものころにさ、日曜の夜に三人で見たミラーマンってあったね。僕、ミラーマンになるからさ」
と言って、むかしの特撮テレビドラマのヒーローのポーズをしてみせました。
 するときい子さんは機嫌を直しとても久しぶりに笑顔をみせたのです。純とは、夫妻の一人息子の名前です。近所に家族とともに住んでおり、仕事帰りや休日にやってきてきい子さんの介護を可能な範囲で行っています。
 シャンプー後にお顔ケアを行うようになって半年がたち、陽三さんがミラーマンポーズをしながら鏡がわりをするのもすっかり定着しました。
 ミラーマン陽三さんの声かけへのきい子さんの反応には二つのパターンがあります。一つは、何も言わずにニコニコする。もう一つは「ふん、噓ばっかり」などと言いながらふくれっ面になる。と言っても怒っているのではなく、照れ隠しとしてです。
 ところが今日はどちらのパターンでもなく、きい子さんは黙って陽三さんを睨むのでした。
 いつものように声をかけたのに何故だろう、と陽三さんは首を傾げます。
「きい子さーん。具合が悪いわけじゃないよね。まっ、いろんな日があるよね。きい子さんの笑顔を欲しがる僕が欲張りなのかもね」
「…………」
 きい子さんは続けて陽三さんを睨んでいます。
 桜井さんがきい子さんの顔をのぞきこみながら帰りの挨拶をしますが、それでも陽三さんを睨みつづけています。
 バイタルサインを含めた観察結果などから彼女の体調は安定していると判断し、桜井さんは陽三さんに帰りの挨拶をします。玄関まで見送るために腰をあげようとする陽三さんに、表情と手ぶりで「見送る必要はない。きい子さんのそばにいてあげて」と伝えて部屋をあとにします。
 そして、玄関に行き靴を履き終えた桜井さんが、玄関のドアノブに手をかけた瞬間、
「あーーー」という、ただならないきい子さんの声がしました。
 桜井さんがあわてて引き返すと、きい子さんが顔をひきつらせて、陽三さんの顔を指さしていたのでした。
 笑ってもひだりの口角だけが上がっていない陽三さんに気づいた桜井さんは、すぐさま救急車を呼びました。
 陽三さんは一過性脳虚血発作を起こしていたのでした。早く対処したことで治療が功を奏して、その後後遺症なく回復することができました。
 陽三さんのわずかな変化が気になっていたきい子さんはじっと彼の顔を観察し続け、はっきりと口角が下がったのを見て、桜井さんに報せるために声をあげたようでした。きい子さん自身が救急車を呼ぶことは困難なため、実に適切な判断でした。
 のちに陽三さんは「ミラーマンの介護日記」というブログに、つぎのように綴りました。

「いつもいつも、僕は妻の顔を観察していました。でも、僕以上に妻は僕の顔を毎日観察してくれていたのでしょう。妻がいなければ、僕はいまごろ、こうしてブログを綴ることも、いや、座ることもできない状態、いや、いまごろ天国だったかもしれないです。ひとりで起きあがることもできない妻が僕を助けてくれました。これでミラーマンのポーズを妻に見せ続けることもできます!」

 

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