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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第152回 ベレーさん 2017/2
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 午前10時すぎ。A病院の医療連携室。
 看護師の小山内静子さん(41歳)が落ち着かない様子で、壁の時計に時々目をやりながら机上のパソコン画面に向かっています。
 自宅近くのスーパータツミヤで知り合った70過ぎと思われる女性について、そのスーパーのレジ担当の雨宮さんから電話が入るかもしれないのです。
 小山内さんはその女性と6年ほど前に顔見知りとなりました。タツミヤで何度も顔を合わせるうちに、会えばあいさつをし、買い物をしながら話をしたり、レジで支払いをしたあとに少し立ち話をしたりする関係です。名前は知りません。いつもグレーのベレー帽をおしゃれにかぶっているので、小山内さんは秘かに「ベレーさん」と呼んでいます。
 小山内さんとベレーさんがタツミヤで親しくなったことを唯一知っているのが、レジの雨宮登美子さん(55歳)です。雨宮さんは名札をつけているので名前がわかりました。
 彼女はレジさばきが早いだけでなく、商品の扱い――どの商品から手にしてバーコードを合わせるか、商品をどうカゴに収めるか――などがスマートかつ繊細にできる人です。
 そんな雨宮さんの大ファンである二人は、いつも彼女のレジに並んでいました。それで自然と、レジが空いているときには三人で話をするようにもなりました。天気の話、最近聴いている音楽、デパート閉店の話、おいしいパン屋さん情報、などなど。
 定期的に話題になって三人で笑うのは、ベレーさんと小山内さんのタイプの違いです。ベレーさんは、実に整然と商品をカゴに入れるのですが、小山内さんは乱雑に投げ込むように入れるのです。
 財布にも違いがありました。ベレーさんは財布の中がきちんと整頓されていて、支払いに手間取ったことがないのですが、小山内さんはその逆でした。
「あまりにも対照的で、何度みても」
 と言って雨宮さんは二人の買い物カゴを見比べて笑うのでした。
 お互いに相手には立ち入らずに話すのがわずらわしくなくて楽しくて、約束したわけではないのに、小山内さんとベレーさんは土曜日のタツミヤの開店時間の10時に訪れて一緒に買い物をすることが多くなりました。毎週その時間に通うことは難しいので、すれ違って三ヵ月ほど会えないこともありましたが、頻繁なときにはひと月に二回くらいは一緒になるのでした。
 この6年間に小山内さんがベレーさんについてわかったことは、
・独身で一人住まい
・唯一の家族である妹は、遠方で息子一家と暮らしている
・定年退職してからはぶらぶらしている
・過去に肝臓を悪くしたことがある
・タツミヤのとなりのマンションの5階に住んでいる
・本を読んだりDVDで映画を見たりのインドア派
・麻婆春雨・辛口、冷凍うどん、アボカド、イカフライが好き
などなど。
 先週の土曜日のことです。小山内さんは、仕事の関係でなかなか立ち寄れなかった土曜の開店時間にタツミヤに行きました。レジの雨宮さんに軽く手をあげてあいさつすると、彼女は笑顔ではあるもののどこか表情に曇りがありました。
 店内に入ってゆくとベレーさんがいました。
 三ヵ月ぶりに会ったベレーさんはいつもと違う雰囲気でした。
 そばに行くと、かぶっているベレー帽に綿埃や糸くずがついたままです。そして着ているシャツもセーターの裾からはみ出しています。いつもきちんとした身なりであったため、それだけでも違和感があります。
 それでも、いつものようにあいさつをしました。するとベレーさんは、振り向いた瞬間に知らない人を見るような目となり、その直後に「あっ、どうも」とほほ笑んだのでした。違う。いつもと違うのです。
 小山内さんがあれこれ話しかけても、微笑んで頷いてばかりのベレーさんでした。カゴに入れる商品も、いつものようにきちんと整理されていません。しかも菓子パンばかりです。
 そして、一緒にレジの雨宮さんのところに行き、ベレーさんが先に会計のために財布を開けたところを見て、小山内さんのもやもやとしていた胸のうちは黒雲がたちこめたようになりました。
 ざくざくとあふれんばかりに十円玉や一円玉が入っており、レシート類もはみ出しています。これまでのベレーさんには有り得ない光景です。
 小山内さんは認知症にともなう実行機能障害があるのでは、と心配になりました。終始小山内さんの話に合わせるように微笑んでいたのも取りつくろいかもしれないと思えてきました。雨宮さんも心配そうな表情を小山内さんにちらりと見せました。
 ベレーさんは一万円札を雨宮さんに差し出し、おつりの千円札と新たな小銭を財布につめこむと、なぜか、小山内さんに深々と一礼をして、商品を詰める台にそそくさと行き、詰め終わるとさっさと帰っていきました。
 小山内さんは雨宮さんに名刺を渡しながら、
「あの、わたし、実は看護師で、こちらに所属しております。彼女が心配で、人付き合いをあまりしていないかもしれず、お節介でも受診をすすめたいと思います。顔色もよくなかったし」
 彼女が次に買い物にきた際に、雨宮さんから声をかけてみてほしいと頼みました。
 すると雨宮さんはしっかりと頷き、
「調子が悪そうに見えるから、すぐそばのA病院の知り合いの看護師さんに相談して受診してみないか」
と声をかけてみると言ってくれました。そして本人がうんと言ってくれれば、A病院まで自分が付き添えるように上司に許可をもらっておくとも。
 そして一週間が過ぎ、土曜日がきたのです。タツミヤにベレーさんがやってきて、雨宮さんの声掛けに驚いたり困惑したりせずに受診を考えてくれるだろうか。でも、もしかしてタツミヤに来られない状態になっているとしたら…などとあれこれ考えると心配がふくらむ小山内さんです。
 と、電話がかかってきます。雨宮さんです。
「彼女、いまトイレ行ってます。そうか、看護師さんに相談してみようかなって、言葉では軽い感じに言ったけど、不安でいっぱいだったのかも。とてもほっとしたような表情になったから」

 認知症と診断され通院がはじまったベレーさんこと幸田ようこさん(71歳)を、小山内さんは地域包括支援センターにつないだそうです。入院患者の退院に向けた調整ではないため診療報酬上の評価は適応外ですが、雨宮さんと連携して対応できてよかったと考えているそうです。

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