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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第16回 病気お見舞いの思い出 2005/9
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 私は小さいころ、風邪を引き、高熱を出し、頻繁に寝込みました。
 りんごの煮たの 砕いた氷の砂糖がけ 葛湯
 このみっつは、私が風邪で寝込んだときに、母がよく作ってくれた食べ物。私は1960年生まれですから、60年代前半から70年代はじめごろまでの話です。
 りんごの煮たのは、りんごの軸に対して垂直に包丁を入れて二つに割り、それを水と砂糖で煮たものでした。煮あがったりんごは、丸い断面を上にして、おしゃじ(お匙のこと)でやわらかくなった果肉を掬って食べるのです。
 母は、りんごの煮たのを私の枕元に持ってくると、おしゃじを持って果肉を掬う真似をしながら
「こうやって、掬って食べると、おいしいからね」
と毎回必ず言ったものでした。そのおしゃじは、柄の部分がらせん状に捻れていて、柄の頭の部分には赤いゼリービーンズのようなガラスの飾りがついているもので、よくある平凡なものでしたが、うちにあるもののなかでは一番華美な一点で私のお気に入りでした。母が私のためにそれを選んで持ってきてくれたことに幸せを感じ、甘すっぱいりんごの煮たのがひと際美味しく感じられるのでした。
 当時、我が家に冷蔵庫はなく、私が熱を出すと、母は氷屋さんから大きな氷を買ってきて、アイスピックで砕き、氷枕を作り、額用の冷タオルを作るための氷水を作り、そして食べるためにも氷を砕いてくれました。
 母が、砂糖をかけただけの砕いた氷を枕元に持ってくると、<あーあ、かき氷用のいちごの蜜だの、練乳だの、カルピスだのがかかってたらいいのになあ>と一瞬思うのですが、ガラスの器に盛られた氷は食べやすく細かく砕かれており、よく見ると湯気のように冷気が上がっているのがわかり、蜜がけよりも練乳がけよりも美味しいように思えてくるのでした。さらに母は、これに例の私のお気に入りのおしゃじを添えて、「エベレストを、どうぞ」と毎度同じセリフを言うのでした。器の中のミニエベレストは、冷たくて砂糖そのものの味がして、喉に気持ちいい食べ物でした。
 葛湯もよく作ってくれました。御碗に葛粉を入れ、熱湯を注いですばやくかき回さなければ透明のトロリとした葛湯ができないので、そうします。母から、葛粉を入れたどんぶりを持たされ、そこに母が熱湯を注ぎ、私がかき混ぜます。母が、餅つきでもするかのように「さっ、いくよ、熱いよ、はい、混ぜて」とリズミカルに声をかけるので、まったく食欲がなかったのに、なんとなく気持ちが弾んできて、砂糖をかけた葛湯をするすると食べてしまうのでした。スプーンはもちろん例のおしゃじ。思えば母はかなりの乗せ上手でした。

 私が二十代のころに教わったハングル語のK先生(男性、昭和ひとケタ生まれ)の自宅に、数年前、病気お見舞いに行ったことがありました。肝臓病で、容態はかなり悪く、一時退院しているとのことでした。
 私は、お見舞いの品に葛粉がひらめき、それに決めました。栄養になり、食べやすく、なによりもK先生は好きに違いない、と私は思ったのです。K先生とは、お酒を飲みながら、よく日常の好きな食べ物の話しをしたものでした。しかも先生と私は嗜好がとても似ていました。たとえば「味噌汁の具の一番は大根だ」とか。
 私は、葛粉を見て先生が喜ぶ顔を想像しながら、先生に、前述の、りんごの煮たの、砕いた氷の砂糖がけ、そして葛湯の幸せな思い出話もしたいと思いました。先生は、私の子供のころの話を聞きたがり、よくうれしそうに聞いてくれたものだったからです。
 自宅を訪ねるとK先生は、元気はないものの、笑顔を作って、私を出迎えてくれました。しかし私が和菓子屋さんで買ったいろんな風味の葛粉の詰め合わせを差し出した途端、顔を曇らせ「葛湯の葛? くず、くず、ふん、人間のクズ、ってか」とつぶやくと仏頂面になり、そっぽを向いて、布団に横になり、以後、どう話しかけても応えてくれなかったのです。いたたまれず、早々に退散してきました。葛粉によって先生が気分を害するなんて予想外だったため、泣きそうなくらいショックでした。
 その数ヵ月後、K先生は亡くなりました。
 つい最近、ふと思い出したことがあります。K先生のお見舞いに行き、悲しい気持ちで立ち上がり、帰ろうとしたそのとき、鏡に映ったK先生と一瞬目が合ったのです。そのときのK先生は、よく思い出してみると、私をからかう時のようなイタズラっぽい表情だった気がするのです。それを思い出して以来、先生はあのとき相当虫の居所が悪くて、私にいじわるをしてみたかったのかもしれないと思うようになりました。これは、私の心が都合よく作りだした記憶のような気もしないではありませんが、いや、ほんとうに目が合ったのです。先生は、葛湯が好きではなかったのかもしれませんが、あの時、本気で怒っていたわけではないのです、きっと。

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