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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第165回 雪解け 2018/3
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 満開となった梅花の香りが街のあちこちに漂っている昼下がりです。
 昔ながらの商店街の一角にクリーニング店の横長の看板がかかっており、その下のガラス戸を開けて、訪問看護師の田宮幹子さん(31歳)と進藤勇治さん(23歳)が中に入っていきます。午後イチの仕事が、ここの家主である錦野岩司さん(85歳)の訪問看護なのです。田宮さんはやや硬い表情で、うしろの進藤さんは飄々とした様子です。
 この一年、田宮さんは錦野さんに丁寧に接して関係を築いてきました。錦野さんは、なぜかとくに田宮さんに対して頑なで、彼女が何を話しかけても口をきつく結んだままカギ鼻を天井に向けているばかりでした。この方の頑なさは根雪のようだ、と田宮さんはおもったものでしたが、半年たったころから雪解けがはじまったのでした。
そのきっかけは、衣類のシミ取り法をたずねたことでした。78歳までの60年ものあいだクリーニング業に携わった錦野さんは嬉々としてレクチャーをしたのです。その方法で見事にインクのシミがとれたユニフォームのポロシャツを田宮さんが着けてゆくと、彼は嬉しそうに血圧測定のための腕を差し出しました。
以来、田宮さんは錦野さんにクリーニングにまつわる話をよくしました。たとえばユニフォームについて。
●はじめに勤務した某大病院では、5着支給のユニフォームは感染対策の意味もあり持ち出し禁止で、費用は病院持ちですべて業者に洗濯に出していたが、洗濯から戻ってくる日にちが二週間とかかりすぎ、勤務ごとに洗濯済みのユニフォームに袖を通したかった田宮さんは、それができず辛かったこと。さらにボタンの破損や消失が少なくなかったこと。
●次に勤務した小規模病院では2着のみの支給で、クリーニング代が自己負担で給料から引かれるというシステム。たとえ自分で洗濯したとしてもクリーニング代が引かれる職場だった。それでも、毎回の勤務ごとに洗濯済みのユニフォームに袖を通したかったため、田宮さんは自宅で洗濯したこと。ときに熱湯を使用して感染対策をしたりしたこと。
錦野さんはこれらの話に目を輝かせて耳を傾け、ときに洗濯から戻るのが遅い理由やボタンの破損の原因などについてくわしく解説したのです。
というわけで良好な関係が続いていましたが、二週間ほど前から錦野さんの田宮さんに対する態度がにわかに頑なに戻ってしまいました。その原因はわかっていません。
今日は錦野さんと率直に話しあい、ふたたびの雪解けをのぞみたいと考えていますが、なぜか勤務先の所長の指示で、研修中の新人ナースのちょっと個性的な進藤さんを連れており、錦野さんとの対話が思うように進まないのではないかと心配なのです。
進藤さんは、大学を卒業と同時に看護師免許をとりましたが、すぐには就職せずに10か月間も海外各地を旅して年末に帰国。そして、2月はじめに田宮さんの職場に採用となった人物で、採用後まだ二週間たらずです。新卒を採用することに職場内で賛否両論あった上に、出勤してきた新藤さんはというと新人とは思えない鷹揚さがあり、出勤初日から昼食に一人で出前をとったりもし、スタッフの中には彼を秘かに「自由人」と渾名をつけている人もいます。そんな彼がスタッフの訪問に同行するのはきょうがはじめてです。

 部屋に入り田宮さんが挨拶をしても、ベッド上に横たわる錦野さんはカギ鼻を天井に向けたままです。
 そこに彼の妻が入ってきて、掛け布団をめくり、夫のパジャマのボタンを外しながら、
「この人がこんなに偏屈になってしまったのは、やっぱり稼業のせいだと思うんですよ。60年休まずに汗水たらしても薄利のせいでなんの財もなせなかったわけです。それに取りに来ない人たちの服を保管してなきゃならないんですから、そりゃあ、性格悪くもなりますよ。なんと20年も保管しているスーツが一着あるんですよ! その人、成人式のためにはじめて買ったスーツだって言ってね、好青年だったのを、今でも覚えていますよ。うちの近所に下宿しているらしくてね、このスーツを買ってくれた親に恩返しをしたいとかってね、いろいろ話して。でも、取りに来ないんだから」
と、進藤さんをちらちら見ながらいいます。訪問に向けた、妻の定番の話題です。
 そのとき、田宮さんは後ろで何か気配を感じます。振り返ってみると、進藤さんが土下座の格好をしているではありませんか。そして彼は、
「ありがとうございます! 20年前にスーツを預けたその人に変わって御礼とお詫びを申し上げます。お店を開けて、20年も待っていてくれているんですね! お店は廃業したにもかかわらず、店の看板と構えはちゃんと残して、取りに来るのを待っていてくれているのですね」
といって、錦野さんと妻に向かってお辞儀します。床に額をつけて。
 あまりにも意外な進藤さんの行動と言動に呆気にとられて三人は目と口を丸くし言葉をうしなってしまいます。
 そして田宮さんと錦野さんは、目が合うと、思わず笑ってしまいます。
 実は錦野さんの妻の定番の話題は、まだつづきがあるのです。20年前のその青年が万が一成人式のスーツを取りに来たなら、20年分の保管料を請求する、計算すると○円になる、でもどうせこれからもこないだろう、まったくあきれた男だ、憎たらしい、嫌んなっちゃう、ため息、という流れです。また、お店は近所に住む息子さんが継いで最常連さんの分だけ対応しているため店じまいをしたわけではないのです。進藤さんは、話の途中で勝手に解釈して感動し、店じまいと勘違いしたようです。
 すぐに田宮さんは、
「申し訳ありません! ご紹介が遅れましたが、こちらは当ステーションの新人看護師の進藤です。今日は研修として同行しております。急にこんな態度を…ごめんなさい。あっ、担当を彼にバトンタッチするための紹介ではありません。錦野さんのご担当は、よろしければ今後も引き続き私が担当させていただきますので、」
と言いながら頭を下げます。田宮さんの訪問看護ステーションでは、訪問の担当が替る場合には、新旧担当者が連れだって挨拶に行くことが多いため、思わず出た言葉でした。
と、錦野さんはくすくすと笑いだし、気にするなといったふうに、手を横に振りました。

 拠点に戻り、進藤さんを帰らせたあと田宮さんは、所長に錦野さんの訪問時の顛末を報告したあと、
「で、それまでは、錦野さんと訪問看護師の私が向き合うだけの関係だったのだとおもいます。関係緊張のときも緩和していたときも。それがもしかして錦野さんには気づまりだったのかもしれません。でも、天然なのか変わり者なのか大物なのかわからない進藤さんの出現で、きょうのあのときは、錦野さんと私は、進藤さんをともに見つめる関係に変わったわけです! それが錦野さんと私の関係性においていいガス抜きになったようにおもいます。もしかして所長はそういう結果を見越して進藤さんを今日の私につけたんですか?」
「いいえ。そろそろ彼に現場に同行する研修をしてもらおうと思っただけ」
「ほんとうですかあ?」
 田宮さんは所長に疑いの眼差しを向けたそうです。

 錦野さんが田宮さんに対してふたたび頑なになっていた理由について彼を担当するケアマネージャーは、
「どうもね、田宮さんが退職して訪問に来なくなると勘違いしていたみたいで、それで寂しくなってしまって急に態度が硬くなっていたのではないかしら」
と田宮さんに話したそうです。

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