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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第166回 精神科実習 2018/4
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 平日の夕方です。
 精神科病棟のカンファレンスルームに宮澤祐樹さん(26歳)がぽつんと座っています。先週からこの病棟に実習に入っている看護学生です。同じ実習グループメンバーの四人はすでに病棟を後にし、いつも学生カンファレンスの場として借りているこの部屋に、彼だけが残っているのです。薄暗くなりはじめているのに電灯をつけずに、テーブル上に広げたA3サイズの用紙――受け持ち患者の全体像を把握するために彼が作成したチャート式関連図。抽出した看護問題も記入してある――をじっと見つめています。
 彼はいま、この病棟の実習指導担当のナース・加賀山さん(31歳)を待っているところです。16時に学生カンファレンスが終わってグループのみなと一緒に帰ろうとしたとき、硬い表情をした加賀山さんがやってきて、
「春山みどりさんを受け持っている学生さん、ここでちょっと待っててください」
と、少々怒ったような言いまわしで言うと足早に戻って行ったのでした。

 宮澤さんの受け持ち患者の春山みどりさん(55歳、双極性障害)は、うつ状態のときは食事が摂れなくなり栄養失調となり入院、躁状態のときは浪費や不眠傾向、不安などが生じて入院を繰り返しています。今回は躁状態となり入院。薬剤によって睡眠が確保され、現在は躁状態が改善の方向となっています。一人息子は6年前に家出して行方知れずで、夫と二人暮らしです。
 宮澤さんが抽出した看護問題のうちの二つが次のとおり。

①双極性障害という病気についてご本人の十分な知識がないため、自身の気分のコントロールができていない
②夫の知識不足や仕事の忙しさにより、夫から十分な援助が受けられない

 今日の10時すぎ、宮澤さんは病室で春山みどりさんを待っていました。彼女の夫・達男さんとともにです。看護問題①と②へのサポートとして、10時から主治医や担当ナースが春山さん夫妻に病気についての説明をすることになっていたのです。しかし春山みどりさんはお風呂に入ってしまい、彼女が戻り次第開始するため、ベッドサイドで待つことになったのです。みどりさんの病室は四人部屋の窓際で、同室の三人の患者は外泊中です。
 みどりさんの夫・達男さんは丸椅子にすわり、宮澤さんは窓際に立ち、それぞれ腕時計をちらちらみながらみどりさんを待ちました。木工職人の達男さんは寡黙な人らしくひと言も発しません。話しかけられたくないオーラを発しているようにも見えて宮澤さんも黙っていました。
 と、達男さんがすっくと立ち上がり、すたすたと向かいのベッドサイドから丸椅子を運んでくると「どうぞ」と宮澤さんにすすめました。学生の身として座るのに躊躇したのち、せっかくすすめてくれたのだからと考えてその椅子に座った宮澤さんに達男さんは、
「口下手で」
と下を向いたままぼそぼそと言ったのです。
「いや、あの」と宮澤さんが返答に困っていると、
「どういうふうに、かかわればいいか、難しくて」
と続けました。
「きょう、これから、病気にかんする理解が進めばきっと」
「いや」
 と宮澤さんの言葉にすばやく返して達男さんは、
「病気のことがよくわかっても、口下手や接し方は変えられない」
と小声ながらきっぱりと言いました。
 やはり、似てるな、と宮澤さんは思いました。口下手で仕事人間で、妻子はほったらかしだった自分の実の父親にです。中学三年のときに両親は離婚し、その後母親の再婚相手が彼の父親になりました。その5年後に実の父親は突然死。仕事場の工場でです。
 宮澤さんは、両親が離婚に向かっているころ、父親に伝えたいことがありました。何も話さなくても笑わなくてもいいから、あと少し1時間でも30分でも多く家にいて、母親のそばにいてほしい、ということ。そうすれば、父親の前で取りつくろった母親だけでなく、たわいなく笑ったり寂しそうにぼんやりしていたりするところも見ることができて関係修復につながるのではないか、いや、万が一修復されなくても、一緒にいる時間を増やしてから結論を出してほしい、と。しかし言いそびれているうちにあっという間に離婚してしまったのです。以来、宮澤さんはさまざまな人間関係において、言いたいことを言いそびれたままになってしまわないよう意識して生きてきました。
 春山さん夫妻の一人息子は、万引きなどの問題行動が多く、母親のみどりさんだけでその対応にあたっていました。その息子が家出したタイミングに彼女は現在の病気の診断を受けており、息子に手を焼いているときも、息子が急にいなくなってからも、達男さんはみどりさんをほおっておいたようだと実習指導の加賀山さんが話していました。
「やりようが、ない」
 達男さんが下を向いて言いました。宮澤さんは、ひと言言いたい気持ちが胸の内に大きく膨らみます。実の父親に言いたかったことと同じことを。
 しかしこらえます。差し出がましいことだからと考えて。そして、看護学生になるために退職した企業の上司に言われたことを思い出します。
「いい意味で率直、言い方かえるとバカ正直? そんな君の性格が、裏目に出ないことを祈るよ」
 私情を大きくはさんだひと言を、無責任な立場の自分が言ってしまったら、それが裏目に出てしまいそうだ。と宮澤さんは心の中でつぶやきます。
「学生さん、何歳?」達男さんが聞きました。
「26に、なりました」
「そう」
 春山夫妻の息子さんも同じ年です。
「………」
「やっぱり」と達男さん。
「………」
「やりよう、ないな」
「そ、そんなことありません!」
 と反射的に言ったあと、宮澤さんは続けました。真剣に、思いをこめて。
「やりようは、ある気がします。まずは、いまより少しでも多く家にいて、奥様のそばにいてさしあげる、というやりようが」
 その直後にみどりさんがお風呂から戻り、予定されていた病気の説明が行われました。それが終わると宮澤さんはすぐにグループ全員で見学する外来へと移動。宮澤さんの言葉を達男さんはどう思ったのか、表情からはつかめないままでした。16時前にやっと精神科病棟に戻ると、スタッフステーションにいた実習指導の加賀山さんから、今日の振り返りは明日しましょう、今日はもう帰ってください、と言われてカンファレンスルームに寄って帰ろうとしているところに、加賀山さんがあらわれて宮澤さんが待つことになったのです。
 
 もうすぐ17時。達男さんとのかかわりの振り返りをするには十分すぎる時間がたちました。宮澤さんは、自分は春山みどりさんの回復を大きく左右する重大なミスをしてしまったのだろう、という考えにいたっています。宮澤さんが余計なことを言ったことについて達男さんが加賀山さんに訴え、そのことを指導するために加賀山さんは宮澤さんをここに残したのだ、と。
 そこへ、ノックする音がしてドアがあき、「あれ?」という声がすると同時に電灯のスイッチが押され部屋が明るくなります。加賀山さんです。走ってきたのか、息を荒げています。
 彼女の姿を見るなり宮澤さんは立ち上がり頭を深くさげます。
「申し訳ありませんでした! 教務に報告し、始末書を書かせていただきます!」
「はあ? え? 説明してください」
 
 加賀山さんは、宮澤さんから詳しく話を聞いたあとにニコリとして、
「なるほど。そういうことがあったの。はい、これ」
というと手提げ袋から缶コーヒーを出して差し出し、
「春山さんのご主人から、あなたに渡してほしいって託されてね。それを休憩室に置いといたら誰かが勘違いして飲んでしまって、売店で同じの買ってきて渡そうと思ったら、患者さんのことでばたばたしてしまって、すごく待たせてしまって、ごめんなさいね。でも、待たせた一時間、絶好のリフレクションタイムになったかもね。
 あなたがきょう春山さんのご主人に言ったことについて、彼がどう思ったかはわかりません。患者さんもご家族も、思いをなんでも看護師に話すわけじゃないから。
 でも、あなたが、私に包み隠さず正直に話してくれたこと、気持ちいいです」

 翌日、春山みどりさんから「主人が、いい感じの学生さんだ、ってあなたのこと話していました」と聞かされ、さしあたり、現時点では自分の性格が裏目に出てしまったわけではないはかもしれない、と宮澤さんは思ったそうです。

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