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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第20回 わがままチケット 2006/1
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 ナース10年目のユカさんの話です。
 日曜日、彼女のマンションに看護学生のときの実習グループメンバーが集まりました。メンバーの5人全員が集まったのは10年ぶり。
 その日、ユカさんの部屋にやってきた四人は、コートも脱がずに立ったままテーブルを囲んでぺちゃくちゃ話しはじめました。台所に立ってコンロに薬缶をかけながら、ユカさんは思いました。
<実習グループのメンバー同士って、やっぱり不思議な関係。クラス内で仲良しグループだったわけではない。でも、久しぶりに会ってもその年月分の空白が感じられないほどとても身近な存在。さっきだって、「おー」「どうもー」「おじゃまするよー」くらいの言葉を交わしただけで挨拶らしい挨拶はしなかった。こうして四人の会話を聞いていると、学生時代のあのころにタイムスリップしたみたい。三年間ずっと同じメンバーで、ときには2対3に分かれて喧嘩したり、学生指導担当のナースに絞られて自信をなくしたメンバーにジュースを奢って励ましたり励まされたり、また患者さんが搾り出すように言ってくれた「ありがとう」の一言に感動してカンファレンスのとき五人全員でおいおい泣いたり…と若いころの一時期に濃厚に苦楽をともにした間柄だから、特別な関係ということなのかしら。昔、看護学校の教務の先生が「看護学生時代の同級生同士って戦友のようなもの」と言っていたけれど、こういう感覚を言いたかったのかも。でも、私、どうして急に、メンバーを招集したくなったんだろう>
 ユカさんは、二週間前に、実習グループメンバーだったA子に電話しました。
「ひさしぶり。あのさ、私、わがままチケットを、使いたいんだ、まだ有効だよね、期限付きじゃなかったもんね。再来週の日曜日、みんなでうちにきて」
「はあ? 急だね。なにかあったの?」
「別にないけど…テレビをね、液晶の大きいのに買い換えて、DVDデッキとの配線とかなんとかいろいろわかんなくてすごく面倒臭くてさ、それを、わがままチケット使ってみんなにやってもらおうと思ってさ」
 これらは、電話をかけてしまってから咄嗟に出てきた言葉でした。
 わがままチケットとは、実習グループメンバーの五人で決めた約束事。ハードな看護学生生活を乗り越えて行くために、一人につき一回だけ実習グループメンバーにわがままを言うことができるというもの。わがままチケットを切った人のためには、多少の都合は後回しにして、そのわがままを最優先しなければならないというのがルール。あるメンバーは、受け持ちの患者さんとのコミュニケーションがうまくとれなかったときに、このチケットを使って、その原因究明のデイスカッションにメンバー全員朝までつき合わせました。また別のメンバーは、大失恋をした日に、テスト前日だというのにメンバー全員に遅くまでカラオケに付き合わせました。

 このチケットを、ユカさんだけが使っていなかったのです。彼女は、メンバーのわがままチケットにつきあうことは苦になりませんでしたが、自分が使うことには抵抗がありました。グループのリーダーとしてなんとなくメンバーに弱みをさらけ出してしまうのはまずい気がしていたのです。それに、看護学生生活はたいへんな日々ではあったものの、彼女はそのチケットを切りたいと思ったことはありませんでした。
 ユカさんは、四人の会話を背中に感じながら、沸いたお湯で彼女らのお茶を入れます。そして思います。
<きっと、四人とも、内心、首を傾げているに違いない。いや、四人は待ち合わせてから一緒にここにきたのだから「ユカ、どうしたんだろ。らしくないよね」などと道々話しながらきたのかもしれない。どうしよう。たしかに、私が配線を頼むなんておかしいもの>
 ユカさんは、グループの中で一番、電気機器類や配線などに強いタイプなのです。学校の教材の古い心電図計を直してみせ、クラスメイトや先生を驚かせたこともあったユカさんが、配線がわからないなんておかしいのです。新しいテレビの配線など自分でやろうと思えばすぐできることでした。ユカさんは、「ユカなら、配線なんて自分でできるじゃない。なにかあったの?」などとメンバーに問われたら困ると思いました。最近、取り立てて変わったことはない。日々、ささいな煩わしさと向き合いちょっとした楽しい時間を過ごして暮らしている。結婚はまだしないけれど、気の合う彼氏もいる。仕事にもときどき自分を鼓舞しながら手を抜かずに取り組んでいる。なのに、なぜ私は、いまさらわがままチケットのことなど持ち出してメンバー招集をかけたのだろう。見え透いた嘘までついて。この、自分でさえよくわからないことを、メンバーに問われたら、彼女は、自分の中の、なにかしら張り詰めている糸がぷつりと切れてしまうような気がしました。
 はたしてメンバーたちは、昔話や近況など途切れずに話しながら、そしてああだこうだといいながら配線などを済ませ、ユカさんが聞かれたくないことはまったく聞かずに、みんなでご飯を食べてにぎやかに過ごし「じゃあ、また。これで、わがままチケット、全員終了!」と帰っていきました。
 ユカさんは、わかっていました。子供がいる人、遠くに住む人、と、急な召集に応じるためには、みんなたいへんな調整が必要だったことを。
 ユカさんは、いまでも、どうして唐突にみんなに召集をかけたくなったのかよくわからないそうですが、実習グループメンバーに集まってもらって、なにかしら欠けた部分が埋められた気持ちになったのはたしかだそうです。

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