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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第21回 とおいところ 2006/2
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 与四郎さん(86歳)は、自室の布団に仰向けに寝ています。数年前から自宅療養しているのです。
 彼は、枕元にある少年の写真に語りかけます。小学5年生になる彼のひ孫です。
「おい、亮太。今日の給食はなんだったんだ。好きなおかずだったか? じいちゃんはな、おまえが、青ざめるほどワカメが嫌いなのが、まったく理解できない。わかめと油揚げの味噌汁なんか絶品じゃないか。丈夫な身体になるには海草は必要だから、これから克服しなければだめだぞ」
 与四郎さんは、ちらりと壁掛け時計に目をやります。
「おっ、もうそろそろ、授業が終わる時間じゃないか。今日は水曜日だ、ここに寄ってくれる日だな。途中で道草なんかしてないで、早くここへ来るんだ。着き次第、おまえが好きなアメリカンドックをばあちゃんにやってもらうからな。ケチャップ一杯つけていいぞ」
 ひ孫の亮太君は、塾のない水曜日には、学校帰りに必ず与四郎さんのところに顔を出すのです。
 与四郎さんは、亮太君の写真をしばらく見つめたあとニヤリとします。
「亮太、この写真撮るとき、余程、笑顔になれって言われたんだろうなあ。無理やり笑ってるのがよーくわかるよ。笑顔が固いもの。写真のときなんて適当に笑ってりゃいいんだよ。生真面目というか不器用というか、オレとは正反対の性格なんだよな。まっ、しかし、人に好かれる性格ではあるな。あの、左側の話からもわかる」
 与四郎さんは、病状により、痰がたまりやすくなり、訪問看護師にその痰を吸引してもらっていた時期がありました。吸引の際、看護師さんが与四郎さんにかならずこう声をかけていました。
「お顔を左に向けてくださーい。そのほうが苦しくありませんからね」
 痰が右気管支にある場合は左、左気管支の場合は右に顔を向けたほうが、吸引されるときの苦痛が少ないからです。その場に居合わせた亮太君(当時、小3)は、<左側に座われば、ひいじいちゃんは左側を向くから楽になる。だから絶対にじいちゃんの左側に座らなければならない>と考え、以後、頑なにそれを実行したのです。小学5年になったある日、ひょんなことから、亮太君のその考えがあきらかになったのでした。
 与四郎さんは、亮太君の写真から目を離さず、またニヤリとします。
 「でもな、亮太。おまえはなんとなく頭が固いから、じいちゃんとの<とおいところは何処か>合戦に負けてしまうんだよ。きたえなきゃだめだな」
 以前、与四郎さんは、亮太君と二人で<とおいところとは何処か>、その思うところを披露しあったことがあるのです。亮太君が一生懸命考えながら<地球の裏側、北極、宇宙の果て>などと答えると、与四郎さんは嬉しそうにこう返したのでした。

「じいちゃんにとってとおいところはな……トイレだ。距離的にはすぐそばにあるのに、身体の自由がきかなくなるにつれて、どんどんトイレがとおくなっていくんだ。これほどとおく感じるものはない」
 それを聞いた亮太君は、少しのあいだきょとんとしていましたが、その後、顔を崩し「じいちゃんが可哀想」と言って泣き出してしまったのでした。そのとき与四郎さんは「亮太、ここは泣くところではないんだ。<ほほう、なるほど、そうか、そういう捉え方もあるんだ、まいった、じいちゃんに負けました、くう>、といって悔しがるところだよ」と言いながらも、ひ孫の涙にジーンときてしまったのでした。
 与四郎さんは、うっすら涙を浮かべて、亮太君の写真にふたたび語りかけます。
「亮太、今日、顔を出したら、また、とおいところは何処か、を二人で言い合って、おまえがどのくらい成長したか、試してやるぞ。まさか、また、地球の裏側なんて言わないだろうな。亮太、早く来るんだ」
 と、襖が開き、与四郎さんの奥さん、つまり亮太君のひいおばあさんが部屋に入ってきます。ハンカチで目頭を押さえながら。
「気持ちはわかるけど、空想して亮太の写真に話しかけるの、やめてくださいよ。せつなくなりますから…」
「………」
 亮太君は、ひと月前に重い病気にかかり、与四郎さん宅のすぐそばの病院に入院中なのです。与四郎さんも亮太君も動くことができず、近くにいるのに会えないのです。与四郎さんにとって、今、いちばんとおいところは、亮太君の病室なのです。
 一日も早く、二人が再会できるのを陰ながら祈っています。

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