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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第24回 二つのちょっとした音 2006/5
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 ナースの幸枝さん(26歳)は、この春の数週間、二つの音に敏感になっていたそうです。
 一つは、二つ折り式の携帯電話を閉じるカチリという音。電車の中などで、隣に立っている人がカチリと音を立てて携帯電話を閉じる瞬間にビクリとするというのです。彼女は言います。
 「その音で、それまではまったく意識になかった隣の人の存在が私の中で急浮上してドキリとする。と同時にその音によって私という存在がその隣の人に崖から突き落とされたような気分になる。そしてイライラしたんです」
 もう一つは、勤務先の病棟で耳にする音で、処置に使用する鑷子(せっしと読む医療用ピンセット、金属製)を鑷子立て(金属製の鉛筆立てのような形)に戻すときのカチャという小さな音。医療用の鑷子は、家庭用の救急箱についているようなものとは違い大きく重みもあるので、鑷子立てに戻すときは注意して静かに行なっても、小さくカチャと音がします。その音を耳にすると彼女は、銀紙を舐めてしまって舌がびりびりしたときのような独特の不快感に襲われるようになったそうです。以上の二つ音は、それまではまったく気にならなかったのだとか。
 私もこの二つの音は、気になるほうです。たとえば地下鉄の車中には地下鉄の車中なりの音というものがあり、それら当然の音は聞こえていても気にならないのですが、携帯電話を閉じるカチリという音は気になります。反射的にカチリのほうを見てしまうのですが、すると携帯を閉じた人が、やけに澄ましているように見えて心の中でクスリとしてしまいます。また、鑷子を鑷子立てに戻す音も病院勤務時代に気になったものです。鑷子を使う場面は、滅菌済みの物品を操作したりすることが多く、その場はシーンと静かで、減菌物を扱う緊張感も関係して、鑷子を置くカチャは実際は小さな音なのにとても大きく聞こえたりしたものでした。
 しかし、幸枝さんの場合はかなり過剰な反応です。
 幸枝さん自身もそう考え、なぜこれほどまでに二つの音に敏感に反応してしまうか自己分析をしてみたそうです。幸枝さんは言います。
 「自分の胸に手を当てるような気持ちで原因を考えてみたんです。で、結局、原因はわからなかったんですが、二つの音が気になりはじめたきっかけみたいなものはわかり、対処してみました」
 幸枝さんは、ある医療ミスの報道に接して「私だって人間だからミスする可能性がある」と思い不安になったところに、仕事にかんすることで自分がひとつのある思い違いをしていたことがわかり、ミスへの不安が増大し、その時期に二つの音に敏感になったことに気づいたそうです。
 「疲れがたまっていたので積極的にリフレッシュしたり、看護職賠償責任保険にも加入したりと自分なりに対処し、ミスへの不安も落ち着いてきたように思えたんですが、二つの音に対しては敏感なままだったんですよ」と幸枝さん。
 そんなある日のこと。深夜勤務中に幸枝さんは、80すぎの男性患者Aさんを、トイレにお連れしたそうです。幸枝さんは彼を、車椅子でトイレまでお連れし、抱きかかえて車椅子から便座へと移っていただきました。と、便座に座ったAさんが寝言でも言うように彼女に言ったのです。

 「島田さん(幸枝さんの苗字)、最近、歩き方にどことなく険があるね。入院してるとね、誰の足音なのか、その足音でその人の調子がどうなのかわかるようになるんだ。で、最近、島田さん、なんとなくぴりぴりしている歩き方」
 幸枝さんはどきりとして、言葉が出てこなかったそうです。
 幸枝さんが、トイレのドアを外側から押さえて(Aさんは、内側から鍵の開け閉めができない状況) Aさんのトイレが終わるのを待っていると、彼はトイレの中からこう言ったそうです。
「大丈夫、いままでどおりで大丈夫だ」
 そして、言葉のあとに、ぷうー、という大きなオナラの音がして、Aさんは「いまのはオナラじゃないよ」「笑っていいよ、グフフ」と笑ったのだそうです。
 幸枝さんが言います。
 「Aさんのぷうーというガスの音がものすごくものすごくおかしくて愛嬌があって、笑いをこらえるのがたいへんだったんです。<オナラじゃないよ>というとぼけた言い方もおかしくって、ナースステーションに戻ってからお腹抱えて笑ってしまったんですけど、Aさんの<大丈夫>という言葉を思い出して涙がこぼれてきてね、ありがたいなと思いました」
 そして気がつけば、例の二つの音は気にならなくなっていたそうです。

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