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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第27回 不機嫌の訳 2006/8
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 道路工事や建築工事。それらが発する音は仕方ありません。しかし、ガン、ガン、と頭の中に響いてくるような音が鳴り続けていると、正直、嫌になってきます。体調が万全でないときなどは、イライラしてくることもあります。
 増改築などで建築工事をしている病院が少なくありません。病院だから特別に工事音を小さくするなどはできないようで、先日、某大学病院の外来受診をした際には、ガン、ガンという建築工事音の大きさに思わず耳を塞いでしまいました。

 神田修二さん(70歳)は、某病院の個室に入院中です。
 この病院では、敷地内に新しい棟を建築中で、そのために日中は大きな工事音が、神田さんの病室にも響きます。ときにそれらの音は、神田さんの隣の病室の患者さんが、「大きな鐘を鳴らしながらズシンズシンと大魔神がこちらに歩いてくるような気がする」とナースに訴えるほどの大きな音になります。
 三日前の午後、神田さんの病室に看護師長代行のGさんがやってきて、今後の相談などをしていました。そこに、工事音がガンガンガンと鳴りはじめたのです。Gさんは眉をひそめて神田さんに言いました。
「たいへん、申し訳ございません。あと数日で大きな音がする工事は終了します。いましばらく御辛抱のほどお願いいたします」
 神田さんは元々無口なタイプですが、脳卒中により、しゃべりづらい状態になり、ますます言葉少なくなり、入院生活ではほとんど自分から話すことはありません。このときも、ベッドに寄りかかって座位になり、正面を向いて黙ってGさんの話を聞いていました。彼女が付け加えます。
「このたび、当病棟では、耳栓を貸し出すこととなりました。よかったらお持ちしますので、お申し付けください。こんな音、たのしいと思う人など誰一人としていないと思います。嫌になってしまいますねえ。ほんとに申し訳ございません。それでは失礼いたします」
 そう言って頭を下げてGさんが退出しようとしたそのときです。神田さんは、ネスカフェのインスタントコーヒーの粉が入ったビンを右手で掴み、憮然とした表情でそれを鉄製のベッド柵に打ちつけはじめたのです。ガン、ガンと、外からの工事音のリズムに合わせて。
 Gさんはあわててベッドサイドに戻り、
「あの、おやめください。ほんと、工事の音はストレスですよね。耳栓、いま、耳栓をお持ちしますので、どうか、それで御辛抱ください」
と話すと、神田さんは手を止め、
「いらん、耳栓はいらん」
 これ以来、神田さんは、思い出したように、ガン、ガン、とコーヒーのビンでベッド柵を叩くようになったのです。昼間の工事を行っている時間帯は、たとえ神田さんがガンガン叩いていても、病室に入らなければ気づかないほどなのですが、シーンと静まり返った真夜中にガン、ガンをやりだすこともあり、それが聞こえるとスタッフは病室に飛んでいくという日々になりました。

 なぜそんなことをするのか、誰が訪ねても答えてくれないので、ナースたちはこう考えました。工事の音へのイライラに加え、神田さんの自宅療養に対し消極的な家族への不満がストレスになり、それが形のなったのではないか。
 Gさんの捉え方は少し違いました。工事の音へのイライラだけでも、家族が退院後の受け入れをしぶっていることへのストレスだけでもない。いちばんのきっかけは自分にある。自分自身の言動、あるいは態度に失礼があり、それが神田さんの機嫌をそこねてしまったのだ。
 このところ、Gさんは自信がなくなることばかりでした。工事音でイライラするのか、患者さんたちからは、いつもの何倍ものクレームが寄せられ、ナースたちからは勤務表作成の件でクレームがあり、頼りのベテランナースが突然辞めると言い出し、今年の診療報酬の改定で看護師配置が見直されたこと(そのこと自体は福音なのだが)で、新しく採用する看護師をなんとしても見つけよと指示が出ているのにまったく見つからず、入院費不払いの患者さんの問題で管理責任が問われたり、などなど。そこへある患者さんから「Gさんの笑顔は、なんとなく無理してる感じで」と言われてしまい、こと笑顔については自信があった彼女は、相当に落ちこんでいたのです。そんな時期に神田さんのガンガンがはじまったわけです。
 神田さんのガンガンがはじまって三日目の今日の午後、ちょうど神田さんがガンガンとやっているところへ、Gさんは彼の病室を訪ねました。彼女には外の工事と神田さんのガンガンが自分に対する非難の合唱のように聞こえます。
 Gさんはベッドサイドの椅子にかけ、ガンガンの手を止めた神田さんに、しずかに切り出します。
「率直にお尋ねします。神田さんがご機嫌を損ねたのは、至らない看護師長代行である私に原因があるように思います。神田さんがコーヒーのビンでそうされるようになったのは私がここにおじゃましたときからですから。そうですよね」
 Gさんは、不覚にも患者の神田さんの前でうっすらと涙ぐんでしまいました。それを見て神田さんは、驚いたように目を丸くし、しばらくGさんの顔を見つめたあと、ぼそぼそと話し出したのです。
「わたし、どうかしていました。ちょっと大人気なかったな。昔、病院やビルの建設現場にいたことがある人間だから、工事の音が耳障りでないばかりか、なつかしくも感じる。Gさんが、あの音を好きな人などいないと言ったから、現場でがんばっている人間がケチをつけられた気がしてカチンときてね、なんとなくガンガンやりはじめたら、気分がすかっとするんで止められなくなってね。Gさんは何も悪くないですよ。私は、自分では気づかないがストレスがたまっているんでしょうな」
 
 その日の夕方、神田さんのご家族の意向の変化で神田さんの退院のめどがつき、彼の表情はがらりと穏やかなものに変わったそうです。

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