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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第29回 新幹線の車中で 2006/10
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 京都から東京へと戻る新幹線車中でのことです。三人がけの座席に、窓側から順に友人のA子、私、そして見知らぬ男性が座っていました。
 A子が「新横浜」で降りると、私の左側に座っていた見知らぬ男性がおもむろに話しかけてきました。
「あの、ちょっといいですか」
 左を向くと、その男性は四十代後半くらいの出張帰りのサラリーマンといった様子の人。
「なにか」
「看護師さんなんですね。さっき降りたお友達との話をつい聞いてしまいまして」
「……」
 たしかに私は友達と看護にまつわる話をしていたのでした。
 しかし私はこういう場で、隣になった知らない人と話すのは好きではありません。乗車する上で必要なことなどならまだしも、プライベートなことなどは特に答えたくありません。
「えーと」私は答えに困ってしまいます。
「あっ、すみません。いきなり。私、こういう会社に勤めている者で、あやしい者ではありません。ちょっと聞いていただきたいことがありまして。看護師さん、なんですよね」
 彼は、自分のあるいは近しい人の病気や入院の体験などを聞いてもらいたいのかもしれないから、聞くことにしようか。そう思って「えっ、まあ。でも、いまはやってませんけど」と返事。
 すると彼は予想通り、5年前に自分が入院していたことを一気に私に話しました。そしてちょうど、オルゴールとともにもうすぐ品川駅だというアナウンスが聞こえ、彼の話も終わったのです。
 ちょっと話を聞いただけだけど、なにかしら彼に役に立つことができたかなと思い、「たいへんでしたね」と声をかけると彼は、話は終わっていないとばかりに、私のほうに向き直り、こう言ったのです。
「その入院のときにいちばんお世話になりそして仲良くしてもらった看護師さんに、私、退院のときにちょっとしたことでキレてしまって、ちゃんとお礼できないでしまったんです。で、それがすごく心残りになって、思い切って退院して三年後にその病棟訪ねたら、その看護師さんだけじゃなくて、知ってる看護師さんはぜんぜんいなくなってたんです」
「そうですか」
「気のせいだって周囲には言われるんですけど、あのときちゃんとお礼しなかったから、その後ついてないことばかり起きるような気がして…。で、今日、あなたが看護師さんだってわかった瞬間に、なにかピンとくるものがあって、そうだ、あのときの看護師さんに代わって、お礼させていただこうと、そう思った次第です。あなたは、あの看護師さんにとても声が似ている。すみません、隣の席になっただけなのに、こんな非常識なことを言って。でも、私としては切実なんですよ、受けていただけますよね、御礼を!」
「えっ?」
 予想外の展開です。
「お願いです。いま、あなたがここで御礼を受けてくれなければ、明日からもまた、ついてない日々が続いてしまうと思うんです。お願いします!」
 そんなことを言われたら余計に重荷です。
「そうだ」彼はなにかを思いついたように、バッグから財布だけを取り出し、席を立って通路のほうに行きます。財布? 彼はなにを思いついたの? もしかして、御礼、御礼って、お金でも包もうっていうの? そうだ、いまのうちに席を立って、別の車両へと逃げてしまおうか。それとも、話を聞いてしまったのだから逃げないで、きっぱり断るほうが筋が通るのかも。どうしよう。
 そうこうするうちに、男性が息急ききって戻ってきました。そして私に差し出したのです、カップのアイスクリーム(売り子さんが新幹線で売っているあれ)を。そして彼は「いろいろお世話になり、ありがとうございました!」と言って、深々と頭をさげました。
 呆気にとられていると彼はアイスクリームを私の紙袋に素早くぽとんと入れて、「これで御礼しましたからね、ありがとうございました」といいながら、ちょうど停車した新幹線から降りていってしまったのでした。
 私は、降りたホームの誰もいない待合室に座り、そのアイスクリームを食べたほうがいいかどうか考えました。新幹線の売り子さんから買ってきたアイスだろうとは思います。しかしいまの世の中、どんな人がどんな悪さをするかわかりません。話はみんな作り話で、アイスには毒がしこまれた、なんてことだってありえなくはないのです。
 結局、食べ物を粗末にして心苦しいのですが捨てることに。しかし、ゴミ箱が見当たりません。乗り換えの途中にどこかにあるだろうと、アイスクリームを手に持って、階段を降り、中央線のホームにきてもありませんでした。そして、やっと都営新宿線の市ヶ谷駅で見つけて、そこに捨てたのです。近くにいた年配の女性は「あら、食べ物を粗末にして」という非難の目で私を見ていました。

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