Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第30回 "佐和子さんのわがまま" 2006/11
dotline

 佐和子さんは、自宅の居間に置かれたベッドに横たわっています。彼女は、傍らに置かれた、彼女の小学5年6年のときに担任だった女性教師の写真に、心の中で語りかけます。
<先生。私は寝室で寝るほうがいいって何度も言ったんです。でもタカオは、居間のほうが寂しくないだろうし、自分としてもより目が届く場所のほうが安心だからって言って、私のベッドを寝室からここにさっさと運んでしまって。でも、寝るのは寝室、そうやって今まで暮らしてきたので、ここに寝ているといかにも病人という気がして……って、実際、正真正銘、病人なんですけどね>
 佐和子さんは、数ヶ月前に突然の脳出血で入院し、一週間前に退院してきたばかり。後遺症としての軽い左半身マヒと言語障害があり、夫のタカオさんが介護をしています。タカオさんは佐和子さんの幼馴染で、写真の中の女性教師は、彼の恩師でもあります。
 佐和子さんは、居間と対面する形式になっている台所で憮然とした表情で洗い物をしているタカオさんをちらりと見たあと、写真の中の恩師に視線を戻します。
<彼を見てください。怒ったときの表情は子供のときとまるっきり同じで、頭の中に充満した怒りのガスを鼻から抜いて、爆発するのを避けているようなあの顔。先生もわかりますよね、その顔になって、いま怒ってるんです。最近の私は怒られてばかり。先生の生徒だったころの私とタカオとは逆ですね。あのころは、学級委員の私が悪ガキでひねくれ者のタカオのことを怒ってばかりでしたから。タカオに言わせると、いまの私は、わがまま者でひねくれ者で、おまけにひがみ屋なんだそうですけど>
 タカオさんは、磨いだ米を入れたボールをひっくり返してしまい、舌打ちをして片付けはじめます。
<家事はほとんど私がやっていましたから、タカオは慣れてないんです。相当疲れているでしょうね、うまく言葉が出てこなくて、ろれつが回らなくて、そのもどかしさにちょくちょく涙する私にイライラするのも当然だと思います。でも……、先生、今日の、タカオが怒る原因になったことについては……そんなにわがままなことなのか、ちょっと疑問なんです>
 このたび自宅療養することになり、佐和子さんのところには、看護と介護の専門家が定期的に訪ねてきてケアをしてくれることになりました。しかし、毎日来てくれるわけではないので、食事や身体の清潔など、毎日必要なことは、タカオさんが行うことになったのです。その計画が今日、訪問ナースが中心になって立てられました。
 その計画の際に佐和子さんは、身体の清拭だけはタカオさんにやってもらいたくない、と訪問のナースに訴えたのです。その理由を聞かれて佐和子さんは「シロウトの夫にやってもらうのは不安だから」と返答。それを受けてタカオさんが、「看護師さんにちゃんと教わってやるから」というと、佐和子さんはしばしの沈黙のあと、「嫌だ、きっとヘタだろうし」と答えたのです。すると、タカオさんは、「なんてわがままなんだ!」「なら、勝手にしろ。毎日風呂に入らないと気持ち悪くて仕方ないっていう性質の人が、それだけ嫌だっていうんだから、余程シロウトのオレにやられるのが不安なんだろ。好きなだけ汚れた身体でいたらいいだろ!」と声を荒げました。最後のほうの言葉は大きな怒鳴り声となりました。
<先生、タカオに身体を拭いてもらうのが嫌なほんとうの理由は、タカオがシロウトだからでもヘタだからでもないんです。ほんとうは……>
 タカオさんが台所から佐和子さんに言います。
「怒鳴ったりして、悪かったな。今日は、肉じゃが作ってみるから。佐和子の好物だからな」
 穏やかな優しい声でした。
 それを受けて小さく頷いた佐和子さんは、小学校時代のエピソードを思い出しました。土手でタカオさんと佐和子さんが二人で遊んだときのこと。佐和子さんがころんで膝を擦り剥き出血。その血を見たショックでタカオさんはその場にへたりこんでしまいました。佐和子さんが心配して「大丈夫?」と声をかけると、「うるせ、当たり前だろ!」と大声で怒鳴ったのです。その直後にタカオさんは、穏やかな声で「怒鳴って悪かったな」といって、佐和子さんを負ぶって家まで送ってくれたのでした。
<先生、タカオは優しいんです。昔からずっと。だから私は正直に言わなければタカオに悪いですよね。身体を拭いてもらうのが嫌なほんとうの理由は……、タカオにこの身体を見られるのが恥ずかしいからなんです。夫婦なのにおかしいのかもしれませんが、私は夫婦だからこそ恥ずかしい。他人のナースの方たちにやっていただいたほうが恥ずかしくないんです。トイレのこともそうで、彼に拭いてもらったり水洗の水を流してもらったりするのは嫌だから退院までに自分でできるように必死でリハビリに励んだんです。先生、こういう感覚って変なんでしょうか>
「タカオ…」
 佐和子さんは、タカオさんに身体を拭いてもらいたくないほんとうの訳を伝えました。するとタカオさんは頬を赤らめ、しばらくの間照れくさそうにきょろきょろしていましたが、そのあと佐和子さんのベッドサイドに座り、なにも言わず彼女の手を握ったのです。

 この佐和子さんとタカオさんのお二人を、みなさんは何歳くらいの方だと思いますか? お二人は七十代の後半です。
 二人は話し合って、タカオさんがサングラスをして佐和子さんの身体を拭く形に落ち着いたのだとか。

ページの先頭へ戻る