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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第31回 手<熱い>看護 2006/12
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 古い一戸建てに、中川さんという男性(80歳)が一人暮らしをしています。病状により、自力ではベッドのそばにおいてあるトイレに立つのが精一杯で、食事や身の回りの世話のほとんどは、馴染みの家政婦さんらに任せており、週に一度訪問看護を受けています。
 この中川さんを訪問したナースの柴田さん(病院勤務をやめ、最近訪問看護ステーションに就職)が、夕方、拠点の訪問看護ステーションに戻ると、スタッフに囲まれます。ベテランのナースが柴田さんに言います。
「中川さんに、手、握られたでしょ」
「な、なんでわかるんですか?」
「<手>に、熱発のほうの<熱い>と書いて、<手熱い看護>の色紙が発端になったんでしょ」
「それもわかるんですか? もしかして、隠しカメラ?」
「違う。うちの新人はね、みな、その中川さんの洗礼を受けるのよ。彼、こないだ私と一緒に行ったときとは、がらりと態度が違っていたでしょ」
「そうなんですよ! こないだは、とても大人しそうな方だと感じたのに、今日は、すごく饒舌でした。なんというか、目を輝かせて」
「やはりね」
「どうして訪問前にそのこと言ってくれなかったんですか?」
 という柴田さんの言葉を受け、スタッフ全員がニヤリとします。
 中川さんは、新しいナースが訪問にくると知ると、「手熱い看護」と毛筆で立派に書いた色紙をベッドサイドに飾ります。ナースがやってきて、その色紙に気づき、さらに字が本当の「厚い」でないのに気づいたタイミングで、彼はナースの手をぎゅっと握り、こういうのです。
「私には、あなたの手の温もり、あなたの手の熱さが必要なんだ。だから、わざとああいう字で書いてある。しばらくのあいだ、最低30分はこうして手を握っていてください」
 ナースが手を放そうとすると、彼はナースの手を改めてぎゅっと握り、「こうしていてくれないと、次に打つ予定のインシュリン注射を打たないぞ」と言い出し、ナースは困惑することになります。
 訪問看護ステーションのスタッフが、さらに柴田さんに聞きます。
「で、どう対応したの? 手を放したらインシュリン打たないぞって脅してきたでしょ」
「はい。私、中川さんの目を見て真剣に、ふざけないでください、って話しました。大切な治療のひとつを悪ふざけに使わないでくださいって。命にかかわることを、そういうことに使わないでくださいって」
「なるほど、そしたら中川さん、手を放さないどころか、強くぎゅっと握ってきて、その手を自分の胸のあたりに引き寄せて、お母様の写真のことを持ち出したでしょ」
「はい。中川さんは、<はめを外しすぎたら、そこにあるお袋の写真が落ちるんだ。まだ落ちないところを見ると、まだ許せる範囲内ということだね。昔、一時期結婚していた女性を、かっとして叩こうとしたとき、ほんとに、あの写真が鴨居から外れて、落ちたんだからね。驚いたね。私はお袋だけには頭があがらないんだよ>と」
 中川さんは、彼が十代のころに先立った母親の額入り白黒写真を、部屋の鴨居のところに飾っているのです。ベテランスタッフが柴田さんに言います。
「そこまでは、みんなだいたい同じ流れなのよ、それで、そのあとあなたはどう対応したの?」
「えーと。……ちょっと言いにくいです。あれは、ナースとして適切な対応ではなかったと思うんです」
「え? どういうふうにしたの? いままでだって、対応はみんないろいろだったのよ。結局一時間近く手を握ったまま記録などをしていた人とか、手を放せないまま無言で彼のお母様の写真を<落ちてください>と祈ったとか、クールに<じゃ、インシュリン打たなくてもいいです。インシュリンは中川さんの体のために打つものですから、ご本人の自由です>と言い放ったとか、いろいろよ。あなたはどうしたの」
 スタッフはみな興味津々といった様子で柴田さんを覗きこみます。
 柴田さんがうつむいて言います。
「中川さんは、私の親よりも年上の方ですが、なんだか、甘えっ子でやんちゃ坊主のうちの子みたいに見えてきて、なにふざけたことを言ってるんだろう、と思って、だんだん頭にきて、中川さんをしばし睨んだあとに、思いっきり何度もジャンプしたんです。あの部屋は畳だから、そうすればお母様の写真の額が落ちるかも、と思って」
「で、落ちたの?」
「はい。私、すごい勢いでジャンプしましたから。体重あるし」
「で、中川さんは?」
「きょとん、として、私を見ていましたが、それまでは嬉々とした感じだったのに、急にしゅんとして<すみませんでした>って」
「絶対落ちないはずのお母様の額が落ちたからだわね。すごい、いままでにない対応だね」
 すると、いつのまにみんなのそばにきていたステーションの所長がこう言ったのです。
「いや、それだけじゃないかもよ。柴田さん、中川さんのお母様にどことなく似ているのも関係してるんじゃないかな。真ん中わけにして結っている髪形とか丸顔とか、気の強そうなまなざしとか」
「あー、言われてみればそうかも」
 柴田さんと所長以外の全員が頷いたのでした。

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