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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第34回 トランプ 2007/3
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 某特別養護老人ホームの一室。
 個室内のベッド上に、ぼんやりと正面を見つめて高齢の女性が座っています。村瀬文子さん、85歳。
 そのかたわらでうすいピンク色の看護衣姿の女性が、村瀬さんの手をとって座っています。看護長の橘めぐみさん、38歳。
 その橘さんが村瀬さんにたずねます。
「今日も、よろしかったら、ババ抜き、しませんか?」
「……」
 村瀬さんは黙って正面を見つめたままです。
 彼女は元々は無口なタイプですが、この一週間ほどは無口に拍車がかかり、食事についても、おかずかデザートかを必ず一品残すようになったことが、橘さんは気になっていました。
<いまを逃すと、一気に食も細くなり具合が悪くなってしまうかもしれない>
 そう考えて橘さんは、三日前から、村瀬さんが好きなトランプのババ抜きをやりながらコミュニケーションを取るようになったのです。すると、ババ抜きのときだけ彼女は、言葉を発してくれたのでした。
 村瀬さんが、元気をなくした理由を、ホームのスタッフ全員が察していました。一週間前に、仲の良かった隣の入所者の女性が亡くなってしまったのです。
<もちろん、それもあるだろうけど・・・>
 橘さんは、ほかの点が大きく影響していると踏んでいます。隣の女性の死の二日前に、少し離れた部屋の草薙さんという男性が亡くなったのです。その草薙さんの死を村瀬さんが知ったのが、ちょうど一週間前でした。
 数ヶ月前に、村瀬さんと草薙さんが、食堂で一度だけ一緒に過ごしたことがありました。そのときの村瀬さんのなんともいえない少女のようにはにかんだ笑顔が、橘さんの目に映りました。その後は、草薙さんが体調を崩し、ほとんど食堂には行かなくなり、二人が会う機会はなくなったのです。
 草薙さんと過ごした日以来、村瀬さんは、車椅子での散歩先を、いつもの中庭ではなく屋上を希望するようになり、トランプを枕元に置くようにもなりました。橘さんはその変化に気づき、<もしかして草薙さんに淡い想いを抱いているのかも>と思うようになりました。屋上へ行く際は必ず草薙さんの部屋の前を通るのであり、二人が一緒に過ごしたとき、ほんの短いあいだでしたがトランプのババ抜きを楽しんだのです。
 そして三日前、橘さんは、誰が声をかけても返事をしてくれなくなった村瀬さんに、何気なくババ抜き遊びを誘ったら、乗ってくれて、ぽつりぽつりと会話をしてくれるようになったのです。もしかして余計に村瀬さんが心を閉ざしてしまうのではという心配があったのですが、常に目に付く場所にトランプを置いているのだから、悪い方向には行かないだろうと考えて誘ったのです。
 橘さんは、もう一度、村瀬さんに声をかけます。
「ババ抜きって、案外おもしろいんですよね」
「………そうなのよね……単純な遊びなんだけど」
 村瀬さんが橘さんのほうに顔を向け、くぐもった声でぼそぼそとこたえました。
「村瀬さんは、自分の手の中のトランプから相手がババを抜くと、ちょっぴり悲しそうなお顔されるから不思議ですよ。普通、相手がババを抜けば自分が勝つわけですから、うれしい顔をします。ババを引いた相手が可哀相だと思われるんでしょうね。お人柄が出ていますね」
 表情が硬く無口なため、冷たい印象を持たれることが多い村瀬さんですが、実はとても温かい気持ちの持ち主であることを橘さんは知っています。
 村瀬さんは、顔を正面に向きおなり、口をきゅっと結びます。そして間もなく、彼女の眼から涙がぼろぼろこぼれ出しました。橘さんは、自分のいまの言葉がいけなかったのだろうかと思いましたが、そうではない気もして、そのまま見守りました。
 少しして村瀬さんはタオルで涙を拭きながら、言いました。
「実はね、ある方からも、いま、あなたが言ってくれたことと同じことを言われたことがあるの。昔、すごく昔のことですけどね。それを思い出して」
「そうですか」
 昔ではなく、一度だけ草薙さんと過ごしたあの時、たぶん彼に言われたのです。
「やりましょうか、ババ抜き」
 村瀬さんから言葉がありました。彼女は、思い出をかみしてめいるかのように、じっくりとトランプを手の中で広げ、自分なりにカードを並べ替えはじめました。
 村瀬さんは橘さんからカードを抜きながらいいます。
「涙を流すとすっきりするものね。もう、私みたいなおばあさんなんかが生きていても仕方ないと思ってたけど、ちょっと気分が変わってきましたよ。あ! そうだった」
 なにかを思い出したようで、橘さんの顔を覗き込んで言葉をつづけます。
「私、そういえば頼まれていたことがあったんだわ。だから、まだ、死ねないわよ。あなたを結婚させなきゃ」
「は?」
「あなた、まだ一人身でしょ。心当たりがあったら世話してあげてって頼まれたの。いい娘さんなのに縁がないらしいからって。いまを逃したら完全にいき遅れになっちゃうだろうからって、あっ、本人の前でごめんなさい」
「誰に頼まれたんですか」
「……」
 とっさにうつむいた村瀬さんがトランプをちらりと見、耳たぶがほんのり赤くなります。たぶん、その人とは草薙さんなのだろう、と橘さんは思いました。

 以来、村瀬さんは、実に熱心に橘さんに縁談話をするようになり、それとともに元気を取り戻したとのことです。縁談話には困惑気味の橘さんですが、草薙さんや村瀬さんの気持ちをありがたく感じているそうです。

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