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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第35回 傷つく 2007/4
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 看護師の由佳さん、33歳。
 先日彼女は、深夜勤務を終えて、患者として受診の順番待ちをしていました。勤務先ではない病院の外科外来です。乳腺症のため乳がんの発見がしづらい状態にあるからと、半年に一度の検診をすすめられ、三年前からこの病院に、看護師であることは言わずに通っているのです。いままでの担当医は退官し、この日から新しい医師になる予定でした。
 由佳さんは、ぼんやりと順番待ちの掲示板を眺めながら、三週間前の夜の出来事を思い出しました。
 三週間前のその夜は土曜日で、彼女は七年前からつきあっている同い年の彼のアパートで過ごしていました。ともに交替勤務のため、土曜の夜に一緒にゆっくり過ごすことができるのは珍しく、二人とも貴重な時間を丁寧に味わっていました。一緒にスーパーでこまかに品定めして買い物をし、買ったものを両手にぶらさげたまま小さな公園のブランコに乗ってふざけあい、台所で一緒に野菜を切り、テレビの前でビールを飲みながら鍋をつついたのです。ここ二年ほどは、ちょっとしたことで喧嘩になってしまいがちな二人でしたが、この夜は、喧嘩になりそうな気配はまったくありませんでした。
 しかし・・・。
 テレビ番組のコントで、看護師が採血するシーンが出てきたのを見て、彼が何気なく言ったのです。
「あっ、このセリフ、傷つくんだよ。こないだも健康診断のとき、看護師が、針を刺す前に言ったんだよ、<すぐ終わりますからね>ってさ」
「ん? なんで、そのセリフに傷つくの?」
「看護師はさ、こっちが採血ごときにびびっているのを、様子から察知して、ああ言うわけだよ」
「誰にでも言ってるんじゃないかな」
「いや、ボクの前の人には言ってなかった。きっと、採血が苦手なボクがその直前に体を固くしているのを感じたんだよ」
「もし、そういう理由で言ったのだとしても、傷つくかなあ。誰だって針を刺されるのは嬉しくないんだから、苦手そうにしていても、ぜんぜん恥ずかしくないし」
「傷つくよー。こっちを気遣って言ってるのはわかるし、その看護師は正しいと思う。だから看護師さんを責めるつもりなんてまったくないけど、ボク自身の胸のうちで傷つくんだよ、意気地のない面を見られてしまってひとりで狼狽しているって感じ」
ここまでは、和やかで穏やかな会話でした。
「でも、そんなことで傷つかなくていいんだよ。患者さんは堂々としていればいいの。看護師として、いいます」
「だからさ……」
 この時点から、ムードが険悪になっていったのです。そして、喧嘩へと発展しました。
「どうして、<そうだよね>っていう一言が言えないんだよ!」と彼。
「だって、ほかならぬ、看護のことだもの」と彼女。
「由佳はな、最近、<でも>とか<だって>ばっかりなんだよ。もう、うんざりだよ」
「なによ、そうやって、すぐ突き放す。悠君だって、このごろ私に八つ当たりしてばかりじゃない。もう、いいよ」
 そう言うと、由佳さんは、アパートを出て、タクシーで帰宅。
 以来、三週間、二人は一度も連絡をとってないのです。由佳さんは、自分から連絡するのはくやしい気がして、彼からの連絡を待っていました。いつもなら、彼のほうからメールがまず届くのです。
 しかし、彼からの連絡はなく、そうなるとさらに意地や不安が膨らんで、余計に自分からは連絡ができなくなってしまい、今に至ります。
<このまま、私たち別れちゃうのかな。こんなふうに、割りとあっさり別れちゃうのかな。やはり、永すぎた春、っていうやつか>
 年齢的にも結婚を意識していた二人でしたが、具体的にはならずに、時を経てきました。

 掲示板に由佳さんの受診番号が掲示され、彼女は診察室に入りました。
 新しい担当医は、30代後半と思しき、あたりのやわらかい男性医師でした。説明も丁寧でした。
 問診のあとは、触診。上半身裸になり、診察台に横になります。前任の医師は、ベテランの風格のある人で、たいへん大胆な手つきでしたが、今度の医師は、乳房を大切にしているのがよくわかる繊細な手つきで、ソフトに時間をかけて行いました。
 触診後の手洗いの仕方も、前任の医師とはまったく違いました。前の医師は、触診後は音もなく手洗いを済ませていましたが、今度の医師は、触診が終わるやいなや、一刻を争うかのように裏手の流しに行き、ザーザーと水を流す音をたてて、かなり時間をかけて洗ったのです。
 これは医療者としてまったく正しい行動です。感染防止のためには手洗いの徹底が大事であり、それをきちんと実行しているのは、医療者の鏡ともいえます。
 由佳さんは頭ではそう考えました。しかし、それがわかっていても、内心、かなり傷ついたのです。
<私の胸、私の腋下をさわって、ほんの少しでも、早く洗ってしまいたいと思ったんじゃないかな>
 自分自身も医療者の身として、そんなことは絶対にないとわかるし、こんなことに傷ついたりしたら医師に対しても失礼な気がしましたが、それでも傷ついた気持ちを打ち消すことはできませんでした。
 そして由佳さんは思ったのです。こういう気持ちになったことを、彼の悠さんに話し、「そうか、そうか」と言ってほしい、と。また、彼もあの夜にそう言ってほしかっただけなのだな、と素直に思いました。
 その日、由佳さんは、自分から彼に連絡したそうです。

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