Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第37回 自宅入院 2007/6
dotline

 5月3日の昼下がり。
 桜井賢治さん(51歳)が、自宅の客間に敷かれた布団の上で横になり眼を閉じています。枕元には、ミニポットとマグカップと薬の袋を載せた御盆が置かれ、足元では加湿器から蒸気がシュウシュウと吹いています。
 その客間のとなりには襖を隔てて居間があり、賢治さんの妻のミエコさんと娘の亜衣さんがいます。二人ともテーブルに肘をつき、レポート用紙に注目してなにやら話し合っています。
 と、娘の亜衣さんが、なにかを思いついたように「そうだ」と声をあげ、あわてて口をおさえて、賢治さんが寝ている客間のほうに眼をやります。すると、賢治さんがゆっくりと眼を開け、居間のほうを睨みます。<夫として父としてのささやかな威厳を取り戻さなければ>と思いながら。

 賢治さんは、ゴールデンウィークの一日目の29日にインフルエンザと診断され、自宅で一週間療養することになりました。
 賢治さん一家は、毎年GWには、賢治さんの実家(愛媛県)に神奈川県の自宅から車で泊りに行くのが恒例で、今年もその予定でしたが、この事態で急遽取りやめになりました。
 インフルエンザの諸症状が強く出ていた療養一日目。賢治さんは、妻と娘が世話をしてくれることを率直にありがたく思い、そして安心に包まれました。実は、ミエコさんと亜衣さんはともに看護学生なのです。二人は、手際よく客間(眼が届きやすく、ケアもしやすいという理由で寝室ではなく客間に)の環境を整え、受診から戻った賢治さんをそこに寝かせ、検温(血圧測定含む)をし、水分摂取をうながし、食事介助、与薬、更衣などをしました。また、更衣の際には、娘の亜衣さんが賢治さんの上半身、ミエコさんが下半身と分担して、むしタオルで清拭を行ったのです。
 ミエコさんは自宅から通学可能の看護学校に、亜衣さんは東京都内の看護大学に通学中です。二年前、娘の亜衣さんが看護大学を志望すると知ったミエコさんは、それに刺激されて自分自身も受験したのでした。賢治さんとミエコさんは、いわゆるできちゃった婚というやつだったのですが、それが看護学校一年のときだっため、やむなく退学したという過去があり、「再度トライしたい」という強い思いがあったのです。
 療養二日目。ミエコさんと亜衣さんは、前日よりも手厚く、賢治さんのケアを実施。二人は賢治さんを「お父さん」と、これまでと同じ言葉で呼ぶのですが、どこかいつもとは違うニュアンスがあり、賢治さんは少し違和感がありましたが<看護師になったつもりでいるんだろうな>と、微笑ましい気持ちでそれを見ていました。ミエコさんと亜衣さんは、これまで不思議と看護にかんすることはあまり話しませんでしたが、今回のことで俄然話題にするようになったようでした。
 療養三日目の昨日。まだミエコさんと亜衣さんが起きていない早朝、賢治さんはトイレに立った帰りにふらりと居間に行ってみて、<二人はここまで徹底してやっていたのか>と驚くことになりました。看護上の問題点、看護計画、看護記録、温度表、などとタイトルが書かれた書類が、テーブルいっぱいに広げられていたのです。タイトルの横には、すべて「桜井賢治殿」と書かれていました。そこまではよかったのですが…。
 書類の中の一枚が、賢治さんの目にとまりました。なんとそれは、「できれば実習させてもらいたいこと」というタイトルで、【床上排泄、排尿、排便(和式・洋式)】【採血】【筋肉注射(蒸留水で)】【陰部洗浄】などとメモしてあり、賢治さんは自分が実験台として見られている気分になり、感謝でいっぱいだった気持ちがうすれてきたのです。<人が病気で苦しんでいるっていうのに、実習人形みたいに考えるなんて><だいたい、妻ならまだしも、娘に、い、い、陰部を洗ってもらうなんて、できるわけないだろ!>
 それで賢治さんは、二人に客間に入ってきたら言ってやろうと思い、布団の中で待ちました。しかし、いざ二人が入ってくると、賢治さんはなにも言えなかったのです。洗面用に一生懸命お湯を運んできてくれたり、朝食のおかゆを作ってくれたり、という甲斐甲斐しさに接し、<あのメモは、自分に向けたものではないのかもしれない>、<二人はよかれと思い、あれこれ精一杯やってくれているのだから、小さなことでぴりぴりするのはやめよう>と思えてきたのです。
 しかし賢治さんは、ふたたび実験台への疑念が膨らんできました。
「薬を飲み忘れてはだめですよー」とミエコさん。
「夜間のトイレの回数、こんなふうに、正の字でカウントしとけば忘れないですからねえー」と亜衣さん。
 この言い方が、なんとも上から見られている感じで、彼はかちんときたのです。それからは「桜井賢治殿」と書かれた客観的な看護計画や問題点などについても、だんだん腹が立ってきたのでした。そして、なにかひとこと言って二人をやりこめてやりたいという思いがつのりはじめました。二人がシュンとする様子を見たくなったのです。しかし、なにを言えばいいか、なかなか思いつかず、彼は一晩中考えました。

 そして、今日、二人に言う言葉をやっと思いついた賢治さんは、何度もそれを言う機会を逃し、いま、そのタイミングを待っているわけです。
 と、ミエコさんと亜衣さんが体温計と血圧計を持って入ってきました。「検温でーす」と二人は声を合わせます。
 それを受けて賢治さんは、憮然とした表情になり、天井を向いたまま、いいます。
「二人とも、どうしてマスクをしないんだ! インフルエンザウイルスは、熱が下がっても体内には残っていて、人にうつす恐れがあるんだろ! 看護学生なんだからそのくらいわかってていいはずだ、ふん」
 するとミエコさんが「お父さん、心配してくれてありがとうね。マスクしなくても、十分予防しているから大丈夫よ」といい、次に亜衣さんと顔を見合わせて「お父さん、ずいぶん元気になったみたいね」とうなずきあったのです。二人ともシュンとするどころか、満面の笑みになったのでした。賢治さんは<そういえば、もともとオレは夫としても父としても威厳なんてなかったんだよ>と心の中でつぶやいたのです。

 その後、賢治さんが見て腹を立てた「できれば実習させてもらいたいこと」メモは、二人がふざけて書いてみただけのものだったことがわかったそうです。

ページの先頭へ戻る