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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第38回 聴診器 2007/7
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 昼下がり。看護師の友子さん(25歳)が、実家の最寄駅の改札口を出ていきます。眉間に皺を寄せ、早歩きで駅前商店街を進みながら、彼女は胸の内でつぶやきます。
<別れたほうがいいんだ。娘の私がそう思うんだから間違いない。はっきりと言ってやる>
 今日、友子さんは夕方から準夜勤務です。昨日も準夜勤務で帰りが遅かったため、ほんとうは少しでも長く自宅で休んでいたかったのですが、今朝方、母親から<お父さん、また癇癪。聴診器は効かなくなったみたい。ちょっと、胃が痛みます>という携帯メールが届き、急遽、勤務前に実家に寄ることにしたのです。
 友子さんは、子供のころから、両親は性格的に合わないと思っていました。偏屈で怒りっぽくすぐに声を荒げる父親のマサシさんと、気が弱くて怒鳴られるのが大嫌いなため父親といるときはいつもびくびくしている母親のヨリ子さん。
 中学二年生のときに友子さんは、意を決して父親に「母さんをむやみに怒りつけないでほしい」と訴え、母親には「小さくなっていないで言い返したほうがいい」と意見を言ったのですが、なにも変わりませんでした。三日か四日に一度は、父親が癇癪を起こし、家の中が重苦しい雰囲気になってしまうことが、中学生の友子さんは悲しくて仕方ありませんでした。すぐに怒鳴る父親を憎みました。
 友子さんが高校になったとき、ヨリ子さんが、マサシさんの癇癪が原因と思われる胃潰瘍になり五日間入院。その間、一度もマサシさんは妻の入院先に顔を見せず、ちょうど仕事が忙しい時期であったとはいえ、友子さんはそれを許せませんでした。
 父親が身勝手に怒り、母はそれに怯えて暮らす。その繰り返しを友子さんは、次第に距離をおいて見るようになり、高校を卒業するころには、「両親なんてどうでもいい」と思うようになり、看護大学に進むと同時に一人暮らしをはじめたのです。
 別に暮らすようになると、互いの日々の暮らしの一部が見える程度になったためか、友子さんは娘として両親を労わりの眼で見るようになりました。年をとったためか、父親が少し穏やかになったようにも友子さんは感じていました。
 しかし、友子さんが看護師になり、病院に就職した三年前、状況が変わったのです。マサシさんが脳梗塞で倒れて入院。右半身マヒとなりました。なんとかリハビリが進み、その後は退院して自宅からリハビリに通うようになったのですが、退院してからのマサシさんは、毎日頻繁に癇癪を起こしヨリ子さんに当たるようになったのです。以前は、怒鳴るだけでしたが、物を投げつけたりするようになりました。そして、ヨリ子さんは胃潰瘍を再発して二週間の入院。その間の友子さんは、新人看護師として仕事が大変な中、マサシさんの世話とヨリ子さんの見舞いが重なり、ヘトヘトになったのでした。
 その後、マサシさんのリハビリはさらに進み、現在は、あの長島茂雄さんと同じくらいに歩けるようにもなりました。ヨリ子さんもさしあたり胃潰瘍は出ていません。しかし、以前と同様に、怒るマサシさんとびくびくするヨリ子さんという図式は変わらず、最近またヨリ子さんの胃の調子が悪くなってきているのです。
 いまから三ヶ月前、友子さんは、ふと思いついて、学生時代から使っていた聴診器をヨリ子さんにプレゼントしました。イライラを看護師にぶつけてくる某患者さんが、胸部や腹部の音を聴くために友子さんが聴診器を当てると、いつになくとても穏やかな表情になり、しばらくは穏やかに過ごされることに気づき、マサシさんの癇癪も聴診器で抑えることができるかもしれないと思い、それをヨリ子さんにすすめたのです。
 聴診器の効果は予想以上でした。一日に二回、ヨリ子さんは、聴診器をマサシさんの胸と背中に当てて心臓や肺の音を聴くようにしたところ、ほとんど怒り出すことがなくなったということでした。
 ところが、今朝方のヨリ子さんからのメールで、友子さんはがくりときました。看護師三年目に入り、指導の責任なども出てきた上に、スタッフ間のごたごたが続いており、仕事関係のことだけで身も心も手一杯という気分の今日この頃なのです。
 実家の門に着いた友子さんは、実家をぐるりと囲むブロック塀を手でぺたぺた叩きます。
<もう、うんざり。これ以上私をわずらわせないでほしい。離婚後は、父さんはヘルパーさんを頼めばいいんだわ>
 友子さんの実家は、こじんまりした平屋で、小さな庭があります。その庭に面した居間にテレビがあり、両親は日中はだいたいここで過ごしています。友子さんは、玄関からではなく、縁側から居間に直接入っていって、威勢を失わずに離婚の提案をしようと考え、庭に入ってゆきます。エアコンをかけて障子をしめきっている居間からはシーンとした気配が漂っていて、友子さんが隙間から中の様子を覗くと、不思議な光景が目に入ります。
 ソファーに上半身だけ突っ伏すようにして眠ってしまったらしいヨリ子さんがいて、そのとなりでマサシさんが、聴診器を両耳にセットし、丸い振動板の部分を彼女の頭に当てているのです。とてもとてもゆっくりとした慎重な動作で、大切なものにそっとふれているように当てています。また、マサシさんの横顔が、心細い少年のようにさびしそうで、友子さんは見たことがない表情です。
 友子さんは、そのままくるりと向き直り、駅へと引き返しながら、イライラをぶつけてくる某患者さんのケアを考えるときのように、マサシさんの癇癪の原因についても優しい気持ちでとらえて考えてみようかな、と思いました。

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