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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第39回 思い出せない 2007/8
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 18時30分、看護師の浅野さん(39歳)が、日勤勤務を終えてA病院を出ていきます。
<J病院なら、急いで行けば面会時間終了前に到着することができるはず>
 浅野さんの勤務病棟に入院していた高山さんという男性(50歳)が、一週間前に転院したのですが、その転院先がJ病院です。
<思えば、こういうふうに以前担当していた患者さんを訪ねるのははじめて。急に訪ねられて驚くだろうけど、喜んでくれるはず>
 高山さんの転院が決まっていなかった二週間前の夜のことでした。浅野さんが準夜勤務をしていると、高山さんからナースコール。この日は、高山さんに担当医から、「今後、たぶん一生、数日おきに透析を続けていかなければならないだろう」と説明があったので、彼が落ち込んでいるのではと浅野さんは心配していました。病室を訪ねた浅野さんに彼はこう言ったのでした。
「ふふ、ぼくは、浅野さんに看護してもらうのは、はじめてじゃないんですよ。実は、ずいぶん前に、一度、看護してもらいました。絶対に覚えてないだろうから、わざわざあなたに言うことないかな、と思っていたんですがーーー。ほら、今日、大島先生から今後の話があって、さすがに落ち込んでね、もし浅野さんが前のことを思い出してくれたら、明るい気分になれるような気がしてね」
「当院には始めての御入院と伺ったように思いますが、再入院でいらっしゃいました? えーと、いつごろ、どこの病棟でしたでしょう。ごめんなさい、すぐに思い出せなくて」
 浅野さんは、外来の待合の前や売店で、以前にかかわった人に声をかけられることがあり、その中でたまに、その相手が誰なのかわからず、内心で困惑しつつ、笑顔で挨拶を返すことがあるのです。長く看護師をしていれば、そういうことがあるのは仕方ないと同僚は言いますが、浅野さんはなかなか割り切れません。
 透析の件でショックを受けている高山さんが、少しでも気分が明るくなるのなら、ぜひとも思い出したい。浅野さんはそう思い、その場で一生懸命思い出そうとしたのですが、だめでした。
 高山さんが言います。「ここははじめての入院です、ふふ」
 浅野さんは、看護師になって就職以来、同じ病院にずっと勤めているのですから、はじめての入院というなら、看護師としては彼に看護をしていないことになります。ならば、看護学生のとき受け持ちの患者さんということになりますが、患者さんら10人のことはみなはっきり覚えています。しかし、受け持った患者さんのお隣のベッドだったというような可能性もあります。浅野さんが聞きます。
「では、看護学生のときでしょうか」
「ふふ。いや、いいです。すみません、変なこと言っちゃって。忙しいでしょうから、もう仕事にお戻りください。お休みなさい」
 そういって高山さんは、布団をかぶって横なってしまいました。
 浅野さんはたいへんはがゆい思いでした。彼女はたとえば、ある俳優さんの名前を度忘れしてしまうと、あきらめずに自力で思い出そうと努力するタイプです。
 彼女は、友達にメールして、以前、高山さんという患者さんの話をしていなかったかを確認し、思い出すきっかけになりはしないかと過去のアルバムの写真を眺めてもみたりしましたが、思い出せませんでした。
 その翌々日、浅野さんは、恐縮しながら、高山さんに直接、いつどこでのことなのか聞きに言ったのですが、彼は不機嫌な様子で「もう、いいですから」と言って応えてくれませんでした。
 そうこうしているうちに、高山さんは転院してしまったのでした。
 その後も、浅野さんはこの件が気になり、つらつらと思い出そうとしていたら、同僚たちの会話の中の言葉がヒントになって、ある出来事を思い出したのです。あれは、翌日から看護学生になるという日で、駅のホームでサラリーマンの男性が手の甲から血を流していたので、彼女はバンドエイドを渡したのだった。すると相手はとても感謝してくれて、その際に、明日から看護学生になることを話したら、「これも立派な看護だ、看護してくれてありがとう」と言ってくれて、バンドエイドと呼ぶのかカットバンと呼ぶのかなどの話もした。お互い名前は教えなかったと記憶しているが本当は苗字を言ったかもしれないと彼女は思いました。また、浅野さんは、左手の小指の第一関節が変形していて、それを見て覚えている人が多いから、高山さんもそうだったのだろうと思いました。

 J病院に着いた浅野さん、病院入り口で尋ねて知った高山さんの病室に入っていき、声をかけ、驚いている高山さんに、一気に思い出したことを話しました。
 しかし高山さんは、喜ぶどころか、困惑した様子で目をきょろきょろさせたので、浅野さんは恐縮していいました。
「急にお訪ねして非常識ですよね。申し訳ありません」
 すると、高山さんはうつむき、しばらく沈黙。そして、やっと口を開いたのです。
「まさか…あっ…あの…、せっかくですが、それは、人違いです」
「え?」
「実は、以前にあなたに会ったことなんてなかったんですよ。つい、嘘を…。むしゃくしゃしてて、あなたをいじめたくなってしまったんだと思います。大の大人が、申し訳ありません」
 高山さんはベッド上に正座して彼女に深く頭を下げたのち、またうつむき、黙りました。肩を震わせ、泣くのをこらえているようでした。
 浅野さんは、この事態に驚きはしましたが、彼に腹は立ちませんでした。それだけ、透析の件がシヨックだったのだろうと思うことができましたし、昔の嬉しかった大事な過去を思い出すきっかけになってよかったと思ったからです。

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